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■スタッズ・ターケルによるビッグ・ビル・ブルーンジーへのインタビュー

『Interviews with Bill Broonzy and others』Studs Terkel, Forkway Records 3817 3856 3864,1956-57

Forkwayからリリースされている3枚のインタビュー録音

スタッズ・ターケルは、作家、ラジオ、TVのパーソナリティ。数十年にわたる長寿ラジオ番組と、『仕事』『よい戦争』などの著書が知られている。 当時、シカゴのラジオ・パーソナリティとして、米国でまだ敬遠されているブルースをオンエアーしていた。
このスタッズ・ターケルによる、晩年のビッグ・ビル・ブルーンジーへのインタビューが、Forkwayから3枚リリースされているのでここに紹介する。CDでも手に入る。インタビューを通してビッグ・ビル・ブルーンジーの人柄や、音楽に対する姿勢を垣間見る事ができる。 他には、Verveから、『Last sessions』という5枚組のインタビューがリリースされているようだが、 レコードしかないようだし、高価なので、私はまだ聴いたことがない。

※自伝『Big Bill Blues』のイギリスでの出版は、1955年。 『Big Bill Blues』はこちらを参照。

FA3864

FA3864:Studs Terkel's Weekly Almanac on Fork Music:1956

録音:1956年、シカゴ
1/ALBERTA
2/I WONDER WHY
3/MAKIN' MY GET A-WAY
4/GOES DOWN
5/LOVE YOU BABY
6/CRAWDAD HOLE
7/JOHN HENRY
※ビッグ・ビル・ブルーンジーの曲のみを挙げた。
ちなみに『アルマナック』は、WFMTにて、毎週水曜夜9時からのオンエアーだったようだ。

FA3864:スタッズ・ターケルによるライナーノーツ

※スタッズ・ターケルは、シカゴのラジオ、TVパーソナリティーのベテラン。彼はまた、わが国で最も早くからフォーク音楽をオンエアーしたDJでもある。彼のTV番組『スタッズ・プレイス』は、元祖シカゴ・スタイルのTV番組として知られる。

その日曜の朝は涼しかったのを憶えている。我々は、WFMTのスタジオへと向かうところだった。ビッグ・ビル・ブルーンジー、ピート・シーガー、そして私の3人。
このラジオ局について一言。WFMTは、シカゴでここ数年人気の高いラジオ局。優れた作品を紹介するのが売り。音楽、ドラマ、詩、討論など。出演者に関して、制約は一切なし。(ただし、暗黙のルールは、『グッド・テイスト』であること。)
我々は毎週『アルマナック』という番組をやっている。主にフォーク・ミュージックをかけ、時々ちょっぴり、ジャズにまで脱線する選曲。
どうしてブルースなのかという、皆様の質問にお答えすると。。。
ブルースはジャズという大木の太い根である。失恋、失業、失望という日常の経験を題材にしているのなら、これはフォークソングと同じものと言えますよね?
さて、出演者をどのように紹介しようかな。
ビッグ・ビルについて。彼のギターは、歌の合間にフレーズを差し挟む。これはルイ・アームストロングのスタイルのちょうど反対。ルイのは、トランペットの合間に、歌が差し挟まる。ビルは、飾り気のないブルースを歌わせれば、この国のナンバーワン。
曲も歌声も既製品ではない。ケバケバしいナイトクラブ向きの演奏だ。女子学生の間で人気が出たりする事はまず無いだろう。彼は力強く自然体の男。小奇麗なタレントとは違う。
彼は知っている事を歌うのではない。知るべきことを歌って聴かせるのだ。
ビッグ・ビルはブルースに張られたレッテルに反論する。「フォークソングの話をする人がいて、ブルースの話をする人がいる。それぞれまったく別扱いだ。どちらもフォークソングなんだよ。馬が歌ってる訳じゃあるまいし。」
最後にどうしてももう一言。ビル・ブルーンジーは、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコよりも、ロンドン、パリ、ブリュッセルの方が、ずっと人気があるんだぜ!
ピート・シーガーについて。振り返るとそこにバンジョー。近年で最高にエキサイティングなフォーク・アーティスト。たぶん歌う学者、と言ったほうがぴったり来る。耳も利くが、目も利くミュージシャン。貪欲な好奇心。見たこと聞いたことを魔法のような正確さで捕まえる。
ビッグビルと違う所は、ほとんどのレパートリーが、自分の経験ではなく、フィールドワークでの採集で身に付けたところ。どんな演奏スタイルも自由自在。バッハ、南部のアパラチアン、西インド諸島のスチールドラムまでこなす。
ビッグ・ビル・ブルーンジーも、ピート・シーガーも、絶滅寸前の文化の継承者。でもそれは、本当は、我々の共有財産であるはず。彼らはそれを自在に歌いこなす。
番組の内容を、実はまだ決めないまま。WFMTに着いてマイクに向かえば、そこに何かが見つかる事が判っているから。

FS3817

FS3817:This is The Blues(with Brownie Mcghee and Sonny Terry)

録音:1957年5月7日、シカゴ (※下記のスタッズ・ターケルのライナーノーツには、7月とあり整合しない。。)
1/KEY TO THE HIGHWAY
2/RED RIVER BLUES
3/CROW JANE BLUES
4/WILLIE MAY
5/DAISY
6/LOUISE
7/SHUFFLE RAG
8/THE BLUES
9/BEAUTIFLU CITY
10/TELL GOD HOW YOU TREAT ME
11/HUSH HUSH
12/WHEN THE SAINTS GO MARCHING IN
※録音は深夜12:00〜2:00に行われ、翌晩の『アルマナック』にオンエアーされたようだ。

FS3817:スタッズ・ターケルによるライナーノーツ

このセッションは、ビッグ・ビルのアイデアから始まった。
ソニー・テリー、ブラウニー・マギーは、浮ついた仲間たちと一緒に、シカゴに住んでいた。彼らはビッグ・ビルの良き友人であると共に、彼が信頼できる数少ないブルース・アーティストの中の2人だった。「あいつらをスタジオに連れてきて、3人の違ったミュージシャンのブルース番組をやろう。」(これが1957年の夏だった。ビッグ・ビルは、ちょうどヨーロッパツアーから戻ったところで、胸の調子が悪いと言っていた。彼は、余命が長くないと感じていたようだ。「だから急いで帰ってきたんだ。そんな風に思ったんだ。」何かに付けて彼は、人生の価値について、基本的な権利と、彼が見た世の中の誤りについて、真偽を語った。唯一つシンプルな真実は、彼がやり遂げたいと思ったプロジェクトのこと。一曲でも多くのブルースを録音したい。出来ればそれに解説を付けて。)
7月のある早朝。午前0時〜2時の間、我々はシカゴのWFMTのスタジオに集まった。Dupont賞を受賞したスタジオ。ビルはいつでも使ってよいと言われていた。
セッションでの彼の意図はすぐに判った。それは3人のまったく違う人生を歩んだブルース・ミュージシャンのそれぞれの人生を反映した個性あるブルースを紹介するというもの。「同じブルースを持った人間なんて、一人としていやしない。ブルースってのは生来のものだ。人生の何かだよ。死んだ奴からは、ブルースは出てこない。」(チャーリー・パーカーは「音楽は、経験、思想、英知だ。死んでたら、ラッパからは何も出てこない」と言った。)
セッションに際して、ビルは、ブラウニーとソニーに、自分達の思いを述べるように言った。ブラウニーは、「俺は、ブルースなんて持ってない。」と語りだした。そしてその後、拙い説明を続けた。「俺はブルースを持ってない。ブルースが俺を掴んでるんだ。俺はブルースと一緒にゆりかごの中で揺られている。ゆりかごは誰も揺らさないのに揺れている。」(ブラウニーの言葉を要約せずに引用した。ブルースはいろいろな場所で、その恐ろしい姿をちらつかせる。ブラウニーのゆりかごを揺らしたり、レッドベリーの朝食のパンになったり。いろいろな人の枕元をうろつく。こんな所からブルースについての逸話が生まれる。ウサギを追って1マイル走るのか?)
一方、ソニーは、「ブルースってのは、金が無い時のことだ。食うものも無く通りをうろうろする。そんなのがブルースだ。」
ビルはもっと深遠な話を始めた。人と人が分かり合えないこと、そこから生まれる痛み、それがブルースだと。多くの曲に暗示されていることを、彼は具体的に語り始めた。「ブルースを持つの、何も一文無しになる必要はない。200〜300ドル、ポケットに入れてても、食い物一つ買う事もできず、腹ペコだった。食い物の買い方が判らなかったんだ。そのときはフランスだったからね。周りの連中は俺の言う事が判らず、俺にはやつらの言う事がわからない。だから俺は何が欲しいか言えず、何も得られなかった。」
他の録音で(3586)ビルは似た発言をしている。苦々しくも自分は弱い立場の人間だと言う。ブルースクラブの経営者が、彼の曲をしばしばボツにする。その理由を話し出した。「俺が、自分のラバが死んだ悲しみを歌にしても、まったく理解してもらえない。だって、自分の飼っているラバが死ぬ事を経験していないから。それはちょうど、ヨーロッパの連中が俺達に、爆弾が落ちてきて家を壊された話をするのと同じさ。どうして俺達が爆弾の事なんか知ってる?見たこと無いぜ。」(ビルは悟っているのでもないし、寛容だという訳でもない。教会で説教を受けた影響ではないか。共通の経験がなくとも、アーティストと聴衆のコミュニケーションは可能だと思う。ここでの問題点はアーティストの側ではなく、非個人性へ傾倒する世の中の重い雰囲気にあるのではないか。)
セッションの間、ビッグ・ビルは、ピリッとした発言を投げかけた。場を盛り上げるユーモア、3人の演奏での盛り立て役。自分に割り当てられた笑い声も充分に提供した。セッションの頭出しとなる『Key To The Highway』に続き、お互いに一番記憶に古い『揺りかごブルース』を紹介する。次は、女がテーマのブルースだ。モノにした女、逃げられた女。ビルの曲は、『Willie Mae』、ブラウニーは『Daisy』。

俺はあの女を呼んだが、あの女は応えなかった。

「俺はその女と一緒だった。そいつが理由さ。」と、ビッグ・ビルは声高に笑った。ソニーは、『Luise』を追って、シカゴからメキシコ湾まで歩いたと歌う。
ソニーはこの曲の作者がだれか、いたずらっぽくビルに聞く。ビルは友人の質問に真面目に答えた。ルイーズを歌うシンガーは多い。本当に彼の作品なのか?ビルの答えは簡単だった。「そうだ。俺だよ。でも俺より上手く歌う奴がいたら、そいつに譲ってやることにしてるんだ。」(確かにこの恩恵に預かったミュージシャンは少なくない。メンフィス・スリム、ジャズ・ギラム、リル・グリーン、メンフィス・ミニー、ソニーもその一人。ジョン・ハモンドがベイシーと売り出した『Every Day I Got The Blues』だって、ビルの作品では?)
続いてビルのギターが鳴り始めると、ソニーとブラウニーが触発されるように演奏に加わる。これは一発録りのブルースの即興演奏。歌詞もメロディーもすべて。3人それぞれ、力強い歌詞で、それぞれのアイデアを歌う。互いに異なる個性と、文化の共通性。それぞれの歌にそれぞれのストーリーがある。

(ソニー)神様、汗でずぶ濡れになるまで歩き続けるよ。
(ビル) 壊れかけたワゴンみてぇな気分だ。車輪も壊れてて動かねぇ。
(ブラウニー)俺が幸せそうだと言う奴もいるが、心の中までは判らねぇのさ。
(ビル) これがお前に言う最後のグッドバイさ。


続いてスピリチュアルの演奏となり、再びビルがリードを取る。「ブルースのアイデアは、スピリチュアルから頂戴した。」友人達も同意する。そして、一緒に、昔から歌い継がれた歌を歌う。3人はこれまでの演奏より、親密そうに見える。ソニーは、『Beautiful City』を歌い始めた。彼はこの曲を母親から教わったそうだ。「12の門があるこの街。ハレルヤ!」ブラウニーも言いたい事があった。多くのスピリチュアルに隠されたもう一つの意味について。2重の意味が込められている。「ボスや管理人に言いたくても面と向かって言えない事がある。それを言うには歌にして歌うしかない。俺達は、自分達の計画を彼らに言わなかった。’神様、あなたは私をこのように扱いなさった。’この歌詞には文意以上の意味が含まれている。神に関しての話であれば、それはそれで良い。もうひとつの意味は、’あんた達の仕打ちを、いつか仕返ししてやる。’」

いつかあなたを、このテーブルにて歓迎いたします。

ビルも憶えていた事があった。「10〜12人の仲間で歌った歌のこと。」私がこの『Hush, Somebody's Calling You』を聴いたのは、この時が初めてだった。これはとても扇動的な内容のスピリチュアルだ。冷静であると共に、情熱的だ。至高のマヘリア・ジャクソンがアポロで歌ったときでさえ、ここまでではなかった。詩的であるが、冷酷な旧約聖書の正義は、人類の裏切りの歴史の中で、ビッグ・ビル・ブルーンジーの全てを奪った欺瞞の中へばらばらに入り込んだ。「罪人よ、嘘つきよ、偽善者よ、泥棒よ、賭博者よ、誰かがお前を呼んでいる。それは神の声のように聞こえないか?」同じ言葉は善人にも聞えただろう。聖人には少しも聞えない。肉と血からなる、強くもあり弱くもある人間は、自分達の中に、悪魔もいれば聖人もいるのだということに、気付いていないのだ。
1958年8月15日の朝、4時30分、ビッグ・ビル・ブルーンジーは死んだ。その朝、シカゴは雷雨に濡れていた。ビッグ・ビル自身も、嵐のような人生の中を通り抜けていった。
ビリング病院のスタンリー・クラーク医師は、ビルの臨終に立会い、翌日に書いた次のような手紙が残っている。「私は彼の友人と言えるような立場ではなく、彼のファンの1人だ。特にこの数ヶ月、そう感じていた。彼の体は病気に蝕まれ、苦痛に苛まれていたが、彼の精神は崇高な尊厳を保っていた。私は、彼が他の病人達と違うところはどこだろうと考えた。私が思うに、それは彼の、不可避なる運命に対する穏やかな受容、輝かしい未来を信じ、不幸を乗り越えようとする彼の意思であると思う。」
友人達と共に過ごしたこのセッションを、ビルはきっと喜んでくれたに違いない。


FG3586

FG3586:His Story, Big Bill Broonzy Interviewed by Stads Terkel:1957

録音:1956年11月14日、シカゴ
1/PLOUGH-HAND BLUES
2/C.C.RIDER
3/BILL BAILEY
4/WILLIE MAE BLUES
5/THIS TRAIN
6/MULE RIDIN', TALKING BLUES
7/KEY TO THE HIGHWAY
8/BLACK, BROWN AND WHITE
9/JOE TURNER NO.1

FG3586:チャールズ・エドワード・スミスによるライナーノーツ

『俺は、古いブルースがすたれちまうのが嫌なんだ。そん時は俺も死ぬときだ。何故なら、俺が演れるのは、古いブルースだけだから。俺は古いスタイルが好きなんだ。』

カントリー・ブルースは、フォーク・ミュージックという織物の縦糸、横糸の中に、ある時は派手なパッチワークとして、またある時は、シンプルで落ち着いたデザインとして、編みこまれている。ブルースと言う音楽はまだそれほど古い物ではなく、ジャズより少し古いというところで、まだこのアメリカの中だけでしか、あまり知られていない。1890年以前には、ブルースという名すらほとんど知られておらず、ブルースの曲はスピリチュアルと同時期にその派生として書かれ、精神の解放の世俗的側面を担った。どちらもシャント、ホラーと関連を持ち、非常に多くの影響を残した。

聖なる歌スピリチュアルと罪深き歌ブルースは、互いに相容れない物で、一方を歌う者は他方を歌わないと見なされているが、音楽の色調やリズムから判断すると、そのような隔たりは無く、多くの共通点があることが判る。実際に両方を歌うシンガーが少なからずいて、それは、言ってみれば、同じ場所で両方を歌う事は無かったという事である。ミュージシャンについて調べる中で、この事が良くわかった。どちらにせよ、分離されてたのは、互いの社会構成であり音楽ではないのだ。今回紹介するビック・ビルが、パートタイムの宣教師になるか、カントリーのフィドラーになるかを悩んだというエピソードには、このような背景がある。彼の選択は、今日のカントリー・ミュージック、ブルース・ファンに、うれしい結果をもたらす事になった。

当時のカントリー・ブルース・シンガーは、都会風のブルース・シンガーと同様に、ブルース以外の音楽も歌い、多くの場合は、ショーのダンサーの伴奏を務めた。彼らのような、巡業するピアノ・プレイヤーを、ジェリー・ロール・モールトンは、『片手のエンターテイナー』と呼んでいた。ビッグ・ビルは、隔離されているが同じ音楽で踊るという2WAYピクニックにて、ダンサーの伴奏を務めた。マ・レイニーは、最初の都会風のブルースシンガーだが、ミンストレル・ショーのテントで明かりを消し、コールマンのランタンの光で、ノベリティー・ソングを歌った。どちらも、このような仕事の歌が売れるようになって初めて、ブルースを歌えるようになった。当時北部では、ブルースが聴ける場所は限られていて、『ダウンホーム』だと見なされていた。しかし、南部ではニグロの聴衆に対しては、都会風でも田舎風でも、ブルースが始まると演奏が盛り上がっていた。

ブルースという言葉の一般的な意味が確立したのは、まだ最近の事であるが、W.C.ハンディが初めてブルースの曲を出版した時点から、ポピュラー音楽において、とても良く用いられるようになり、ブルースという言葉が生まれる以前に曲に対しても用いられるようになった。ブルースの起源は明らかではなく、いわゆる初期のスピリチュアルに対して、類似しているものを区別するために、最初は用いられていた。ビッグ・ビルが、この点について、スタッズ・ターケルのインタビューに対してコメントした事は、彼の地域性(※注1)から考えて、真実だと思われる。一方でブルースは、19世紀には、ニューオーリンズの下層のたまり場で演奏していた者たちが使っていたという記録がある。低いドラッグする感じがブルースであり、(南部全体で知られていると共に、北部の都会では、初期のラブタイムに関しても知られている。)『クーン・シャント』は、叫ぶようなブルースのスタイルと関係があると考えられている。(これは、先進的な雑誌、フリーマンの中で用いられていた)ブルースという言葉の発生は、少なくともエリザベス王朝時代にさかのぼり、曲や音楽に対しての含意は、元々の言葉の意味から派生したものである。この事はジャズについても同様で、ジャズという言葉そのものも含め、多くの言葉がジャズの中へ転用された。(学術的には、アングロサクソンを起源とする説と、アフリカを起源とする説の2説がある。)

ブルース音楽の形式、歌のスタイルについては、ある部分は、奴隷時代に起源を持ち、他の部分はスピリチュアルと共に、西洋とアフリカの資産を受け継いでいる。後者については、口承されて来ているので、残っている記録は少ない。しかしながら、ブルースとスピリチュアルの、メリズマティック(多音的で1音節に多くの音を入れる)なフレージング、音を震わせる事、歌手が交互に歌う方法などは、これらの背景を反映している。(これらの説明は、『The Story Of Jazz』、Oxford University Press, 1956の中に記されている。)

ブルースとスピリチュアルは、アメリカ土着の音楽で、その基本的な形式は、長い時間をかけて形成されてきた。しかし、ブルースについて、ある定まった形式(一般的に12小節からなるが、必ずしも定まったものではない)が作られるのは、奴隷時代からのスピリチュアルが、自由の歌として開花する以降となる。黒人解放の後、スピリチュアルの重要性は、よりブルースのものと密接になり(当時はまだブルースとは呼ばれていない)、この動きは19世紀末に向かって、白人至上主義の勝利とそれによる絶望、幻滅によって、いっそう加速する。少数民族は、再び固定化されるのだが、それは喜ばしい共通文化としてではなく、独立宣言の考えに反する、社会的、政治的な否定という苦々しさにおいて、である。1896年のプレッシー・ファーガスン裁判で示された結論で、アメリカ最高裁は、ブルース音楽の発展に大きな影響を与えた。(※注2)繰り返しになるが、奴隷制度、人種差別は、この新しい音楽の母親だったと言ってよい。

多くのブルースは、分析によれば、労働の問題をテーマとしており、社会への抗議としてのブルースであろうとした。にもかかわらず、ブルースには、プロパガンダ的な側面は少なかった。ブルースはもっぱら、悲哀があり、善悪のある人間社会全体を題材としており、日常生活での出来事を脚色して作られている。ブルースは悲しみだけでなく、親愛さ、人生の喜びも題材に取り上げている。

今日、多くのシンガー(人数は限られていて、この中ではまだ無名なままのシンガーも含まれる)がブルースを歌うとき、ブルースという歌や語りの伝統を実行している事になる。ジェリー・ロール・モールトンと、その仲間であるジャズの先駆者達が注目を集め始めたこと、ブルースでの語り(音楽に合わせて物語を語る。長く複雑なストーリーもある。)は、珍しくなくなっており、1920年ごろ、彼らがシカゴでジャズを演奏している頃には、(カントリー・ブルース・シンガーの中で彼らだけが例外的に)すっかり時代遅れのものとなっていた。短いブルースでは、例えばベッシー・スミスが歌ったものもあるが、ブルース系ではないシンガー(メディアの扱いではなく、シンガーの出所がブルース系ではないということ)では語る方法は失われつつあった。この原因は、1920、30年代に大衆化に向かった、ブルースという音楽の無力さによるところもある。例えば、1920年代には、文化的偏見が、ニグロの人々自身の偏見も含め、彼らを二流のアーティストだと見なしていた。時代の潮流の中にあって、古いスタイル、古い伝統を保つ事ができた幸せなシンガーは、ごく少数であった。例えばそれは、レッドベリー、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ブラウニー・マギー、などである。しかしその当時、最も優れたブルースは、地下室などで演奏されていて、スピリチュアルで最高のシンガーを聴こうと思ったら、街角で待っていて、ブラインド・ウィリー・ジョンソンがギターと投げ銭を入れる空き缶を持って現れるのを待つ、といった状況だった。

スピリチュアルの音楽は、二重の意味があり、一つは歌詞通りの意味と、もう一つは自由という特定のテーマに関する意味である。地域色のある南部高地の英語のフォークソングという意味では、スピリチュアルは、土地によって特色ある歌詞を持ち、地域によって異なる重要性を持っていた。特に、歌詞が自由への地下鉄道を暗示する地域で、ブルースには、同じものではないが、秘密性という意味で同程度の、特別の意味が生まれた。

ブルースは、スピリチュアルに比べると秘匿性は少なく、多重に意味が隠されている事は少ない。理由は一つある。小作農は奴隷に比べれば、多少はプライバシーというものがあり、外では歌うことの出来ない歌を、自分達だけで歌うことが可能である。それに加え、プランテーションでの管理は、監獄農場と言えるようなやり方に類似しており、適当なうっぷん晴らしを行う事を認めるオーナーもいた。(奴隷の歌でもこのような事が認められていたケースがある。)例えば、ビッグ・ビルの『Key To The Highway』では、『俺はハイウェイへの鍵を手に入れた。すべてを清算して立ち去ろう』と歌われている。このような例を見ると、ブルースがどのようにその特性を発展させたかがわかるだろう。

フォーク音楽のメロディーは多少の差こそあれ、口承の音楽で、著作権の保護からは外れていたので、音楽は自由な環境であったことは間違いない。これはフォーク音楽の歌詞についても同様である。言葉、フレーズ、テーマのメロディ、ブルースの基本となるリフ、これらは原曲を配慮することなく、使えるものはどんどん使われた。例えば、『俺の家の裏口にもいつか、太陽が輝く』という詩が、ジョン・エスティスの曲に出てくるが、同じ詩が、ビッグ・ビルの『Trouble In Mind』や、他にも多くの曲に現れている。私は以前にもの述べたが(Brownie McGhee Blues, FP 30-2)、同じ言葉使い、あるいはまったく同じ文が、英語の物語から南部のフォークソングに多様性の一つとして取り込まれたり、山岳部の歌や民話がブルースに取り込まれている例がある。このような貸し借りは、ずっと行われ続け、フォーク音楽を豊かで深いものにしている。

ブルース・シンガーは、自分達の、多くの場合はみすぼらしく汚い日常環境に、尊厳と悲哀を見出した。(例えば、マ・レイニーのmean-man-typeのブルースなど)しかし、ベッシー・スミスによる、カントリー・ブルースのプロトタイプとも言える、バック・ウォーター・ブルースにあるように、それは多くの場合、個人的ではあるが普遍的な内容だった。こうして、奴隷社会の悲哀は、黒人でもあり白人でもあるジョー・ターナーのようなブルースの語りの中に暗示され、どのようなエッセイよりも説得力を持って、普遍的な人間性を描き出した。(この曲はビッグ・ビルの2回の録音に含まれている)

スタッズ・ターケルのインタビューによる2回の収録でブルーンジーが歌った歌の中で、また彼の『Big Bill Blues』という本の中で、彼の創造的な歌が、彼自身の人生とどのように関連してきたかを知る事ができる。このことは、彼の歌の中にも反映されている。彼のスキ引きの仕事、黒人であるが故に耐えねばならなかった差別、危険かつユーモラスかつ悲壮な人生と恋愛、そして友達との音楽を通しての交流などである。我々がすでに述べてきたように、ブルース・シンガーは、現代の吟遊詩人であり、ダンサーと共に演奏するエンターテイナーであり、土地土地の事件を語る語り部でもある。日常生活の中での感情を表現し、ビッグ・ビルの『Mule Walkin' Blues』にもあるように、人間や動物の寓話を用いて、鋭い風刺で聴く者たちを楽しませる。

『俺はミシシッピに生まれ育ち、アーカンソーで過ごした頃もある。』ビッグ・ビルは彼の『Big Bill Blues』の中で語っている。『50才になるまで、ミシシッピとアーカンソーを行き来して過ごした。』ビッグ・ビルはギターを抱えて、もっと遠い場所へも言ったし、また、第一次世界大戦で従軍も経験している。1931年に、第2回のスピリチュアル・トゥ・スウィングでカーネギーホールに出演した時、小作農たちが知っているいくつかの曲を演奏したくない、なぜなら自分はまた小作農として戻らなければならないかも知れないからだ、と私とスターリング・ブラウンに語った事がある。私の知る限りでは、彼が戻る事は無かったが。

1951年に彼はパリで初めてのコンサートを行い、イギリス、ベルギー、フランス、他のヨーロッパの国々で有名になった。そのツアーの間に、『Black, Blown, and White』を録音した。アメリカに戻った後、この曲を録音しようとして、黒人と白人の両方から多くの反対を受けた。逆に協力してくれる人もいた。ビッグ・ビルは、黒人が(そして白人も)『もし黒人なら、帰りな』という歌詞が嫌いなのだと言っている。『俺は誰かを責めるつもりはない。俺達、この国の黒人は、生きている間ずっと差別され続け、俺達はずっとその差別と戦うのだ。しかしこの曲は、ネグロに、帰れという意味の曲ではない。ネグロが仕事の中で経験したことを歌っただけだ。』(Big Bill Blues)

ビッグ・ビルは、ご機嫌な時は優れたストーリー・テラーで、スタッズ・ターケルの今回のインタビューでもこの事が感じられる。この録音の中で、そして、自伝の中でヤニック・ブルイノフに語ったように、これらの記録は、ブルース、そしてジャズの分野での、類まれな業績の一つと言える。これらの記録にはもう充分に、ビッグ・ビルの生涯について書かれており、ここでは小生を説明しない。加えるなら、ユーグ・パナシェの『Guide To Jazz』(Houghton, Mifflin, 1956)によると、ビッグ・ビルの誕生日は、1893年6月26日、生誕地はミシシッピのスコット、本名は、ウィリアム・リー・コンリー・ブルーンジーとなっている。

『ビッグ・ビルは、最も優れたブルース・シンガーの一人だ。』とユーグ・パナシェは書いている。『彼の演奏は、リラックスしていて、純粋で、他に例を見ないほど、抑揚が豊かである。自分の特徴となるスタイルでどの曲も歌う他のシンガーとは異なり、ビッグ・ビルは、自分の曲に微妙な色づけをして、最終節のコーラスに劇的な効果を生んでいる。彼はギターの演奏も一流で、幅広い音色を奏でる。彼の演奏スタイルは、ブルース・ミュージシャンとして理想的なスタイルだ。』

ビッグ・ビルが初めて演奏した楽器は、タバコの空き箱から作った手作りのバイオリンだ。彼はマンドリンを弾いた事もあるが、しかし、彼の演奏をギターという楽器を抜きに考える事はできない。コードを刻んで曲のリズムを保ちながら、時にはジョー・ターナーに見られるように呪術的なフレーズを繰り返す。またある時は曲を中断させ、またある時はリズミカルに、曲を印象付ける。時には、ギターは第2の声となって、ボーカルの呼びかけに応じる。また彼は、昔、ダンサーの伴奏をした時のように、ギターソロの演奏も行った。『みなが長い時間踊れるようにするために、歌うのは止めて、弦を弾くことだけに専念し、踊れ、みんな踊れ、と呼び掛けた。そして、みんな一晩中踊っていたのさ。こんな風にして、ギターだけ弾くスタイルを身に付けた。4,5種類の歌わないスタイルで演奏できるようになったのさ』(Big Bill Blues)。ビッグ・ビルは、バップのコードが出来る事を見せてくれたが、自分自身の曲の中では使っていなかった。ビッグ・ビルは、厳格なカントリー・ブルースマンだった。

ブルースは、(ここではカントリー・ブルースに限定するが)唯一つの重要なジャズの源流である。優れたジャズ・シンガーは、楽器を演奏するような方法で、自分の歌い方を構築すると言われている。最初は、、ニューオーリンズにて、ジャズがまだ初期の頃に、ボーカルのブルースから派生した、という記録が残っている。しかし、ブルース・シンガー自身にとっては、声はまさに楽器そのものである。しかもそれは、たった一つのユニークな楽器であり、ジャズバンドが生まれるずっと前からそうだった。ブルース・シンガーは、喉や口、肺を良く出来た楽器であるかのように使いこなし、伝統的かつ、一般的なリード楽器として、他のボーカルスタイルと同様に、ただしユニークな方法で、ハートやマインドを表現し、息の仕方やビブラートを用いて、歌の指紋とも言うべき特徴を作り出すのだ。

驚くのは、大きなカントリー・ブルースの遺産は、都会のブルースにおいて、ジャズマンが、楽器を鳴らし、フレーズ、トーン、リズムを作って演奏するスタイルへと引き継がれている点である。ブルースの歌において、人間の声の可能性には限りがなく、これは、コンサート・トレーニングにも似ている。ビッグ・ビルの声の質、声のトーンの作り方は、それぞれの曲に合わせて自在に変化する。彼の名演は、ブルース全体の名演に位置づけられ、通常の演奏であっても、他との比較では、優れた部類に入る。彼は、スタイルのある演奏の中に、多音的な分節法や、ビブラートされたメロディラインを用いて、ニュー・イングランドの巡礼者の集会や、アフリカからの奴隷の音楽要素を描き出す。しかしながら、このような彼の、トーンとリズムを組み合わせたスタイルは、根源的にはたった一つの、アフロ・アメリカンと一般的に呼ばれるスタイルから、生み出されている。

ブルース、スピリチュアルの一つの側面として、ジャズへの影響があるが、それは、アフリカ的歌唱を西洋音階へ適応させてく過程として理解できる。ここで私は、いわゆるブルーノートのことを指して言っているのではない。これも確かに重要だが、トーンとリズム強調と、それによってもたらされる緊張感を指している。少なくともその中には、長短様々なメロディラインと、ある決まった小節数の形式がある。(※注3)ビッグ・ビル、ベッシー・スミス、ブラインド・ウィリー・ジョンソン(彼はスピリチュアルに分類される)の曲を聴けば判るように、言葉の形は、歌いやすいように変化している。科学の分野で、必要は発明の母であると言われることは、技術についても同様である。創造的な努力により、新しい形式や、美を発見する過程があるのだ。このようにして、手持ちの斧の使い方も発達してきたし、無数の音節が、一つのブルースのメロディーラインに変化してきた。

ビッグ・ビルは、数年前に、ヤニック・ブルイノフとの共著により、英国にて自伝を出版した。(Big Bill Blues, Cassell London; issued in U.S. by Crove Press 1956)これは、野心的かつ素晴らしいプロジェクトで、この本について私は、ニューヨークタイムズにレビューを書いた。私はこの本と、フォークウェイのプロジェクトを、どうにか一つに出来ないかと考えた。フォークウェイが今回の2つの長い録音を企画した時に、私は、『Jazz 57』という雑誌の編集者で、ブリュッセルに住んでいる、ヤニック・ブルイノフに手紙を書いた。ヤニック・ブルイノフからの返事には『ヨーロッパで初めてビッグ・ビルを出迎えたのはこの私で、1951年7月の事だった。フランスでは、パナシェが、ホット・クラブでの演奏を企画したが、ビッグ・ビルの飛行機は、ブリュッセル行きだったので、私が空港へと出迎えた。もちろん私は、彼の素晴らしい個性に圧倒された。彼と本当に親しくなったのは、1953年頃だろう。2人でパリで会ったとき、私は彼に自伝の話を薦めた。彼もとても乗り気だった。著作にも書かれているが、自伝を書くにあたり、テープレコーダーを使わなかった点も宣伝したい。ビルは大部分を自分で書き、もちろん我々は、重複をまとめ、修正を加え、余剰を削除するなどの手助けをした。また私は、フランス語への翻訳を行った。この時私は、原文にある、ビルの個性、話し方、出来ればアクセントまで、これらが伝わるように腐心した。』これらのことは、タイム誌のレビューにも書いたが、苦労に見合う優れた成果であったと思う。

『アメリカ全土を旅して過ごしてきた。』とビッグ・ビルは語る。(Big Bill Blues)『メキシコ、スペイン、ドイツ、イギリス、オランダ、スイス、イタリア、アフリカ、ベルギー、フランス…。これも古いブルースを守るためさ。俺が生きている限り、古いブルースを守り続けるよ。』



※注1:このことから、ブルースと言う言葉は都会の方が早く広がったと言えるだろうか。証拠とは言っても断片的なものしかない。ビッグ・ビルは、テンポの速い曲をゆっくり演奏すれば、ブルースになると言っている。この事はブルースのメロディの多様性を考えると、とても興味深い。逆の言い方をすると、ブルースは、ロックンロールだけを考えても、数千とはいかなくても数百の曲を提供していると言える。(スピリチュアルから来た曲もあるだろう。)ジャズ・マンは、ブルースと初期のラグの両方を、テンポを上げて演奏し、JOYS, STOMPというスタイルを作った。多くのティン・パン・アレーの音楽は、初期のブルースから発展して、商業的なものとなった。ショー音楽、ポピュラー音楽の中にも、ブルースを起源とするものはあり、最も有名なのは、ガーシュウィンのサマータイムだろう。

※注2:しかし、彼らの信頼のために加えるが、ハーラン判事は次のように異議を唱えていた。『我々の憲法は、白色、有色の区別を持たず、市民の内に階層を見出すことは無い。市民の権利に関して言えば、全市民は法の前において平等である。貧しいものは権力あるものの仲間である。法は人を人として見なし、その環境や肌の色では判断しない。市民の主権がこの国の最高の法によって保証される限り、我々はこの国の市民が自由を享受できることを誇りに思う。しかしながら、我々が誇りとするわが国の法が、特に奴隷制度という烙印を持ち、法の前に平等な市民の品位を貶めている事について、残念ながら、解決する事が難しい。』(Intoroduction To American Constitutional Low, Francis H. Heller; Harper's, 1952)

※注3:ブルース形式のフレージングは、ジャズでは基本的なスタイルとなる。そしてまた、上記にも述べたが、それはそのまま、カントリー・ブルースのスタイルを演奏する事と同じである。


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