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H・W・ギャロッド『間違いだらけの良書選び〜正しい本の選び方〜』(1929年)
■H・W・ギャロッド『間違いだらけの良書選び 〜正しい本の選び方〜』(1929年)
『How To Know A Good Book From A
Bad』 (From『The Profession of Poetry and other Lectures』, 1929,
Heathcote William Garrod, )
訳文
良い本を選んで読むにはどうしたら良いだろうか?シェークスピアと同時代に書かれた戯曲に『良い妻の選び方』というタイトルのものがあり、
当時、相当な人気を博した。もし本当にタイトルにある問いに答えているのなら、この戯曲は、世界で最も偉大な作品の一つになっただろう。
良い本を選ぶ、という事は良い女房を選ぶ事に比べると、少し順位が下がる。極東の国の一夫多妻の国のように、本については一夫多本、
1人で多くの本を持つ事が出来る。気に入らない
本は、焼いたり売ったり、まあ少なくとも、文句を言うことぐらいは出来る。これが女房となると話が違う。
気に入らないと言って焼いたり売ったりは出来ないし、文句を言ったところで黙って聞いている女房など居やしない。
ところで、一度でも結婚した事があれば、自分の女房のどこが不満で、何が気に入らないか、
普段感じている女房の欠点を瞬く間にいくつも挙げられるだろう。しかし、書物に関してはというと、随分とたくさんの本を持っている人でも、
確信を持って、これが良い、これが悪い、とはっきり言える人にはお目にかかった事がない。
ところでまず始めに、「本」という言葉を定義しておきたい。対数表の本、スケジュール帳、綴り字のお手本、ラテン語の文法書、
これらは「本」から外しておきたい。ニュートンの『プリンキピア』、ダーウィンの『種の起源』あたりも、「本」からは外したい。
人類にとって重要な本ではあるが、楽しみや教養のためではなく、情報のための本だからだ。ある意味では、
想像力や感情に訴えるところが少しも無い、という本は無いだろう。しかし、そう決めてしまうと本の良し悪しが議論できない。
どちらにせよ我々は、本棚に並んだ物凄い量のつまらない本を相手に不平を述べるわけなのだ。
私自身が考えても、この世界に良い本が多量にあるとは思えない。ある意味では、どんな本でも良い本ではある。
本を書くだけの才能のある人物が、最初からつまらないと判っている本を書くなどという事があるだろうか?
例えば絵画ならば、良いとまでは行かなくても、つまらない絵を描くのにだって、それなりの才能と訓練が必要だ。
会話にしろ、文法、活用、語順、スペルにしろ、これらを身につけるには相当な努力が必要なのであって、それがあってはじめて、
流暢に話をしたり、事実にせよ空想にせよ、一応は物語と呼べるようなものが書けるようになる。
給仕にバターを頼むのだって、少しは学ぶべきやり方というものがある。
実家に5シリング送ってよこすように手紙を書く場合、洒落た手紙を書こうとする場合などは、なおさらである。
そう考えると、どんなに酷評されたとしても、それなりに本と呼べるようなものを書く事は、奇跡と呼んでも良いようなことなのだ。
以上までに私は、どんな本でもそれを生み出すには相当な技術と才能が必要だと言う理由で、すべての本は良い本だ、と結論付けた。
しかしながら、そんな本の中から、良いものを推薦し、どうやって選ぶべきかを示そうとする訳だから、これは結局、
つまらない本、という言葉を言い換えただけの事である。私が思うに、良い批評家、というものは、長い目で見ると、深い慈愛をもって作品を学ぶ人であって、
逆に、インテリと呼ばれるような歴々は最低の批評家である。世界には文学性には乏しいが、良い本と呼べるものがたくさんある。
それらは素直で害の無い楽しみを与えるだけの本である。そういった作品を除外して嫌いな振りをし、人生に役に立たないものだと決め付けてしまうのは、
物知り顔のようでいて、誠実さに欠けるやり方だ。スティーブンスンは他愛の無い怪談話などを好んで読んでいたようだし、
シェークスピアの戯曲のアイデアをたどって行くと、文学性の低い作品からの影響が色濃く見られる。
当のシェークスピアは、それらを非常に楽しんで読み、大いに啓発されていたのだった。彼はあまり学者ぶることなく、血なまぐさい冒険物を楽しんで読み、
そのことを我々読者に対しても、素直に認めている。我々のこの世界は暗部を多く持っているが、良いところもある。
同じように、どうしようもない本であったとしても、何らかの人生の色彩のようなものを我々に与え、興奮させたり、気分を和らげたりしてくれるものだ。
学者ぶることを止めにする、と決めてはみたが、そのためには、我々は文学を学ぶほどに、文学についての変なプライドと戦う必要がある。
忘れてはいけないが、悪い本、極悪の本とは言っても、極悪の人間とは違う。優れた作者の作品だとしても、作者の長所のうち、十分の一でも表現されていれば良いほうだ。
なぜ彼はその作品を書いたのか?それは、作品が彼の中から湧き出してきたからだ。作者が善と取り組むうちに、文学の泉から、
彼の本能の深いところから、湧き出してきたのだ。本と言うものをこのように考えると、魂とは神聖なものだと、改めて感じざるを得ない。
それにも関わらず、本を持つには狭いこの世の中で、出来れば悪い本ではなくて良い本、二流の作品ではなくて、一流の作品を読みたいと思うわけである。
まず第一に、時間の節約のためにそうせざるを得ない。人生は我々が思っているよりもずっと短いものであり、読む価値のある本はそれなりに多くある。
第二に、悪い本を含め、どれも良い本だと言っても、そこにはなんらかの優劣があるのだ。
選ぶ観点を間違えてしまうと、多くの中から優れたものを選んで読んでいる人達を妬まずに居られなくなるだろう。
本を選ぶということは、店先で品物を選ぶのとはちょっと違う。選ぶという点では似ているが、本は我々の精神に入れるものである。
カートに入れて家に持って帰る物とは違うのだ。少し前の方に、どんな本でも多少は心に安らぎを与えると書いた。
確かにそうではあるが、良し悪しを評価する事も必要なのだ。小説や演劇を楽しんでいる人々を見て気付いたが、ある種の作品では、
涙の量で作品の優劣を判断する人が多いようだ。それが正しいかどうか、私にはなんとも言えないが、となると、悲劇、感傷的な作品では、
どれだけ読者を泣かせるかという点が重要になってくる。ホメロスの感動的な一節について、フランスの著名な評論家が次のように言っている。
「ホメロスの声は震えもせず、手を握りもしない。」私には当を得ているように思われる。
ところで私は、ミス・ヘンリーウッドの「イースト・レーン」や、キャノン・ファラーの「エリック」を読んだとき、感動して涙を流した事を覚えている。
しかし、リア王やオセロでは、神が禁じたのだろうか、私は泣かなかった。その理由はシェークスピアにあったかもしれないし、私自身にあったかもしれない。
私は「イースト・レーン」を、混みあう列車の三等客室で読んだのだ。その時の私は、涙が頬を伝って流れ落ちるといった状態で、
周りの乗客の注目を浴びることになってしまった。そんな訳だから、向かいに座っていた心優しい年配の牧師さんが、大丈夫ですか?と声をかけて来た程だ。
しかもまた私が、自分の考えを正直に話して
しまい、この本があんまり酷いので、それで泣いていると答えたので、牧師さんは相当、当惑していた。その後、牧師さんは私をそっとしておいてくれたが、
それは私の答えを理解した訳ではなく、私を気違い扱いしただけなのであって、向こうで私に十字を切ってお祈りしていた。
悲劇と呼ばれる感傷的な文学作品達は、私たちの心を静める役割を果たしていると言える。
現実の生活の中で疲れた心に、安らぎを与えてくれるのだ。
でもこのように述べた私の意見に対して、多くの反対意見が出るだろう。おそらくその反対意見が強いのが間違い無いので、
私はその人たちと論争したくない程だ。だから上記の件は、私の怠慢によるものだとご容赦願いたい。
人間の性格というものは多種多様であり、読書からくる感動も、その人の過去の体験、その時の状況、健康状態などに左右されるのである。
だから評論家の皆さんは、涙が出なかったからといって作品の価値を低く見積もってはいけない。
近くまで来ない波を馬鹿にして酷い目にあった王様と同じ屈辱を受けることになる。
もうこれ以上言うのはよそうと思うが、文学の世界で秀でた、偉大な詩人をもってしても、感情を揺さぶるという意味において、
我々の期待以上の何かをもたらすことはなかなか難しいと私は思う。芸術家による感情のコントロールと言い換えても良い。
芸術家の側から見ると、読者の感情という車を運転することは非常に難しい。まったくでたらめに走り回ってしまうものなのだ。
ここでシェークスピアのリア王について話そう。詩人がどのようにして読者の感情を揺さぶるのか、
この劇の第四幕の最後のシーンを読むと、それが見えてくる。文学において、芸術家のコントロールは、これ以上の例は無いだろう。
感情が急激に駆り立てられ、でもそれは残酷ではなく、何かが抑えているような感じがある。
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リア王:
俺は馬鹿な老いぼれだ。
ちょうど八十歳といったところ。
正直なところ、気は確かでもないらしい。
お前を知っているような気がする。この男もだ。
でもそれも疑わしい。
ここがどこだか判らないし、この服にも覚えが無い。
昨晩俺はどこに居たのだろう。笑わないでくれ。
ところでこの女性、私の娘のコルデリアのようだ。
コルデリア:
はい私です。コルデリアです。
リア王:
泣いているのか?頼むから泣かないでくれ。
毒を持ってきてくれれば、それを飲もう。
お前は俺を愛してはいないだろう。
お前の姉さんたちも俺にひどいことをした。
お前にはそうする理由がある。
姉さん達には無いけれど。
コルデリア:
そんな理由はありません。
リア王:
ここはフランスか?
ケント:
ここはあなたの領土でございます。
リア王:
俺をいたぶるな。
医者:
お后様、大事になさってください。
気を荒らげますと命に関わります。
失った記憶を戻そうとするのは危険です。
寝床へ戻るように、お勧めください。
これ以上はそっとしておいたほうがよろしいと思います。
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実際のところ、医師はこのようにして助ける訳である。シェークスピア以外の作家であったなら、父、娘の会話をさらに進めてしまい、
コルデリアの「はい私です。コルデリアです。」のような素晴らしい台詞をもっと書こうとしてしまうに違いない。
しかしシェークスピアはそこをぐっと堪え、場面をコントロールしている。
私は描写の例として悲劇を引き合いに出した。なぜなら文学評論というものが始まった頃から、悲劇は文学の最高の形式の一つとされているからである。
そして何にせよ、文学においては、悲劇的な部分の描写をどう扱うかという所で、
一流の作家と二流の作家、一流の作品と二流の作品の差がはっきり出ると言えるだろう。
ここで付け加えておかなければならないのは、優れた描写の効果には誰しも気付くのだろうが、我々は、二流品の効果にも惑わされがちだ、という点である。
その違いをここにはっきりと示すことは難しい。センチメンタルでもの悲しい部分の描写は、夏の積乱雲のように我々に襲いかかる。
そして、それが優れた描写ならば我々の感情に安らぎを与えるだろうが、そうで無い場合、
大して価値の無い出来事や感情の描写に、我々の中にある大切な何かを浪費してしまうことになる。
そして最後には、本物の純粋な感動と、不自然で贋物の感動との区別が判らなくなってしまうのだ。
そういうわけであるから私は、文学の最高の効果と呼んだ、このような悲劇の効果に関して、一言、言っておかなければなるまい。
詩人や作家が我々の愛情や感情を駆り立てるだけでなく、コントロールしてしまうのであり、そして我々はそんな読書の最中に本当に感動してしまうのであるから、
悲劇の描写をもって本の良し悪しを判断しようとしても、何の判断も出来ないのだろう。
そしてこのような、偉大な詩人による感情のコントロールは、単純には定義できない物であるけれど、
我々もすぐに気付く事ができるものだと思う。
それはある種の雰囲気のようなものだ。社交パーティーの場にあって、
その場を支配してしまう、ある種の秀でた人々から発散される個性、注意を引き付けるそのまなざしのようなものだ。
さて、この感情のコントロールというものがまず一つ、優れた文学を他からはっきり区別する目印になるわけだ。
良い作品を見分けるための指標は他には何か無いだろうか。
まず一つ気をつけておきたいのは、「論旨が明解か?」という観点で本の良し悪しを判断するやり方である。
この質問はとてもシンプルではあるが、その結果、得られる答えが的外れで無いか疑っておいたほうがいい。
そして文学作品(特に恋愛小説など)にこのような、初歩的で現実的な問いかけをする事が、徒労に終わらないかどうか考えたほうが良い。
しかし結局、本の良し悪しというのはごく基本的な問題で、かつ、人生と言うものが意味を持つ限りにおいては、現実的な問題ではある。
ちょうど前の章で私は、「感動させる」という観点で文学を階級分けし、我々の素朴な文学への嗜好を釈明したところだ。
これに対する批判を、どうして退ける事ができるだろう。一体、問題はどこにあるか。
私が示したとおり、「馬の手綱も掴まずに拍車をかける」という文学作品の有り方には、ある意味、問題がある。
これらは同時に、一般的には許されにくい、明らかな技術上の欠陥を持っている。
「感動する本」というものもつまり、エピソードをつなぎ合わせて出来ている。
必然性、可能性とは関係なく、出来事を積み重ねていく。有機的なつながりは無いが、印象的な出来事の連続であり、
順序はあっても、互いに連結されたものではないのだ。実際、エピソードのうちの一つが取り除かれたとしても、他のエピソードや全体へに対して、大きくは影響しない。
言い方を変えると、広義には「論旨の明確な本」と言うものは存在しないのである。
「人生だって同じ問題を抱えている」と、きっとあなたはおっしゃるだろう。確かに人生は、無関係な出来事の連続である。
そしてあなたは、それが明らかな真実だと気付かずにこうも訊ねるだろう。「一体、文学など何のためにあるのだ?」。
文学の目的とは結局のところ人生の描写である。しかし描写すると言う事は、本質的でないもの、関連の無いもの、つながりの無いものを取り除くという事ではない。
描写するとは、全体を互いに関連付けて見せることである。人生というものはその大部分で、論旨が明確なわけがない。
文学の大多数の作品も、やはり、論旨が明確では無いのだが、それらはやはり、悪い作品だと言わねばなるまい。
この意味で、そして、この意味だけにおいて、つまり、文学とは何かを、ある偉大な作家の言葉を借りるならば、それは、人生に対する批評である。
文学において、論旨は明確であるべきだ。実人生では不可能な事であるが、文学においては本質的でないものは取り除かれるべきなのだ。
さて、最初は随分と単純な問題を扱っていたつもりだったが、だんだんと問題が複雑になってきた。
我々は、批評という水面に小石を投げ込んだつもりだったが、いつの間にかその波紋は、現実世界全体へと広がり始めてしまった。
本の良し悪しを確かめるために、「論旨は明解か?」「すべてが述べられているか?」
今までに読んだ本、観た劇に対して、このように問いかけてみると、このような高いレベルで試されたのでは、十
のうち九割は悪い作品だと言わざるを得ないだろう。別に私は、明解な性質を押し付けるつもりはない。
ある意味ではそれらも現実の救済である。それらの本を開くことで、文学理論という広い道へ踏み出すことになるのだから。
良い作品というものは有機的な統一性を持っているものだ。
そして、そのために書かれた訳では無いのだけれど、良い作品は人生に対する批評なのである。
私が現実性と呼んだものについて、ここで少し時間を割いて話しておきたい。良い作品が人生を批評すると考えた、その考え方についてである。
今私が言おうとしているのは、良い作品の論旨ははっきりしていて、フランス語のことわざにあるような、表現しつくされていない作品では無い、ということだ。
出来事を単純に積み上げただけでなく、原因と結果の関係に従ってそれらを繋げてゆく。しかし、それだけでは無いのだ。
本というものは行為やエピソードを統一的に繋げたものであるが、それだけでは良い本だとは言えない。統一性に欠いた作品と大した差などない。
良い本であるためには、さらに違う要求を満たさなくてはならない。それは自然世界が示しているところのものだ。
あなたがある劇を観たとして、それが有機的に統一されている作品だからだと言って感動するだろうか?もっと違う事を考えるはずだ。
「これは誰についての話だろう?」この問いが神秘のリングを持っているのだ。実際、ほとんどの小説、戯曲は、具体的な誰かではなく、空想の世界の話である。
そう考えると、あなたも同意して下さると思うが、作品の中での行動の基礎となるような、人間の性格というようなものがそこには無いのだ。
作品の中に登場した人物と、現実の世界で出会ったところを想像しようとしても、
実際にどんな人物か、そのしぐさ、雰囲気、優しさなどの人物像は、まったく見えてこない。
彼らは作品の中の行為に与えられたラベルでしかないのだ。詩、戯曲、小説では、人物の描写は話の筋より重要化どうか?という議論がしばしば行なわれる。
ここで私は言いたいのだが、良い作品、特に二流でない本当に優れた作品にあっては、このような問題は議論する必要がない。
優れた作品においては、人物と話の筋はぴったりと一致し、人物は彼自身として行動するし、描写された行動は人物そのものであるからだ。
ところで私は、文体や修辞については、まったく言及しなかった。しかしながら一般には、作品の良し悪しは文体によって、容易に判断できると考えられている。
この事に関して、「良い本の論旨は明解だ」と言うだけにとどめよう。
ここで私は、作品の内容の統一性について説明した時とは違う、もっと広い意味で明解だと言っている。
論旨の明解な作品に文体があるかどうか、ということになると、私はなんとも判断できない。
それは「現実の人生とは違う、文学のための言語は有り得るか?」「恋愛問題に取り組むために適した詩的な話法はあるだろうか?」と問うこと同じである。
普通の人物の会話から、本質的で無いもの、偶発的なものを取り除いたとしても、文体と言うよりは何か、無表情のものでしか無いだろう。
結局のところ、詩が詩と呼ばれるのは、それが散文では無いという所にある。
そしてまた同時に、モリエールの「町人貴族」のおかしさは、ジュルダン氏が、自分ではそれと気付かずにずっと散文調で話していたというところにある訳だが、
これも少し違うように思う。誰も散文調で話したりはしないのだ。だからこそ、誰かが散文調で話したときに、「あいつは散文調に話している」と言われてしまうのだ。
普通の人が話をする時に、論旨が明解だということはまず無い。ほとんどの人は話している言葉と伝えたい内容が一致していない。
それは話している我々自身や、その性格とも一致する事が無い。私は親しい付き合いの中で一度だけ、文体が効果を見せた時の事を憶えている。
この事は、ここに記録するに値すると思う。戦争が始まった年に、私は、ベルギーからの亡命者と話した事があった。
彼は教養ある人物ではあったが、英語の知識は随分少なかった。彼はアントワープでの包囲から抜け出してきたばかりだった。
彼は、我々イギリス人は戦争という言葉の意味が判っていないと不平を言った。「私は知っている。私は老人達の逃亡を見てきた。そりゃあ、酷かった。」
私はこの時の印象を忘れた事がない。ホメロス以外には決して見ることの無かった文体の効果、というものがそこにあった。
文体の効果とは何か、がここで判る。彼は英語の語彙が限られていたがために、話した内容が非常に本質的なものに押し戻されてしまった。
偶然というものも一つの芸術になりうる。すべての本質的でないものが取り除かれた結果、彼は、関心の話題について明解に表現したのだ。
相当な反対意見もあるとは思うが、私は文学、そして特に詩は、人生に対する批評であるとした。
私が思うに、芸術において要求される統一性は、必然的な結論として、人生を再構築する。
それはつまり、現実の世界のほとんどを占める、偶然の出来事、不条理、混沌、一貫性の無さなどからの解放なのである。
しかし私は、文学は人を教育するとか、教育して立派にすると言っているわけではない。
私は、同世代の大学教授である尊敬すべき人物の言葉を借りて、こう言い換えたい。
立派な人物は悪い人物に対しての批評である、と同じ意味において、文学は人生に対する批評なのだ、と。
立派な人物、思慮のある人物は、人に説教などしないものである。
「芸術、そして文学は、倫理的であるべきか?」とあなたが問うならば、
私は、多くの人々が基準とするところの「常識」というものとは違った基準を持って答えなければならない。
深淵な雰囲気を持つ芸術についての議論において、「常識」を持ち込むことは厭うべきことだと私は思う。
さらには、「人間は倫理的であるべきではないだろうか?」と問う人も居るだろう。
不愉快なテーマ、非道徳的な傾向の本というものは、気分屋の人物のようなもので、そこには才能が結実し、人々に娯楽を提供している。
文学に対する潔癖は実生活の中での潔癖と同じぐらい退屈なものだ。しかし、実際のところ、長い目で見ると、道徳への信頼は揺らぐ事がない。
社会のあり方が激変する時代があるように、不道徳な文学が流行する時代もある。
しかし、いつの時代にも中庸な人物というものは居るのであり、慈善心といった実直な人々の考え方は、決して廃れることは無い。
文学は倫理的である事によって我々を楽しませるのではなく、我々を楽しませることで、倫理的たらしめる。
世界が不快なものを受け入れてしまうのは、ごく限られた時代の間だけである。
人々によって受け入れられている限り、文学は倫理的であろうとする必要はないと思う。
皮肉っぽく言い換えると、社会が我々に倫理を押し付けている間は、我々は無理に倫理的であろうとする必要は無いだろう。
さてここまでに、良書、悪書の見分け方をくどくどと述べてきた訳だ。
これまでに、詩、戯曲、小説について述べてきた事を、そんなに難しく考えずに少し応用して考えると、他の分野にも適用できそうだ。
例えば、歴史、修辞法などに対してである。ある種の詩で、私自身はあまり好きではないのだが、あまり適切でない呼び方で、叙情詩と呼ばれているものがある。
これらにおいては、話の構成や性格の描写は二の次とし、話の筋と性格の関係よりも、作者の読者の関係をまず第一として重んじている。
今日ではこのような詩だけが読まれているようだ。我々の生活様式が大きく発達した事も忘れてはいけない。
でもそこには、我々を圧倒するような豊かな作品は見つからない。だからと言って、最近の詩は読むに値しない、などと言っていても始まらない。
読んでから批評するのでなければ卑怯である。
私に出来ることは、叙情詩の良し悪しを見分ける大雑把な方法を示して、
ジョージア王朝風という時代遅れの呼び方をされる野性味ある多様な詩の形式をここに紹介することぐらいだろう。
私自身について言えば、自分は何が好きで、どうしてそれが好きなのかを判っている。私はジョージア王朝風の作品が好きだ。
それらは他の形式の詩とは違っていて、良い詩とされる作品に対して共通点が多い。そんなところが好きなのだ。私はあえて忠告する。
すべては自然の秩序に任せればよい。今からでは何も始まらないし、今から始めるのは危険だ。もっとはじめに戻る必要がある。
時間というものがそうであるように、我々も努力しなければならない。時間は常に前へと進み、後戻りはしないのだ。
たとえ「偉大な精神がこの地球上に存在する」のだとしても、賢明な我々は、ミルトンから始めて、メースフィールドへと進むのが良いだろう。
それは近道では無いけれど、愉快なやり方なのだ。
その時までには、作品の良し悪しを見分けるといっている、私の無力な足萎えのこの理論が、どのように評価されているかが、あなた方にもきっと判るだろう。
ところで、私の杞憂ならば良いが、ひょっとして、あなた方は、私が考えていたよりも随分と高い望みを抱いて、この講義に来ていた、という事は無いだろうか?
それならば、いっそ、来なかった方が良かったかもしれない。本当に正直なところ、色々と言った後で私の結論としては、優れた本が良い本だ、という一言に尽きる。
実際のところ、本当に優れた学者とは、地味で控えめな学生なのである。
ベテランの批評家達だって、今もまだ教壇の上で、シェークスピアだ、ミルトンだ、ワーズワースだ、とブツブツ言っている。
まだ作品の味見をしているといった様子だ。良い食べ物を摂っていれば口を汚す心配は無い。シェークスピア、ミルトン、ワーズワースは良い食べ物の一つだろう。
必ずしも、これら3人の作家のような作品が良い作品なのだと言っている訳ではない。
しかし、この3人の作品を読んだ後の、すっきりとした舌の上で、なんらかの文学作品を味わうのであれば、
比較として、その作品の味、香というものが判るのではないだろうか。
この講義の中で私は何度か、悪い本にも良いところがあると言った。そして今、私は自分でもあまり好かない、インテリゲンチャ風の結論で結ばざるを得ない。
矛盾の無い結論で終わろうにも、講義の時間は残りわずかである。それに、大して面白くもない結論にしかならないのだ。
インテリゲンチャの悪いところは、結論が間違っている所ではなく、結論をじらす所にある。
これから先も上手くやっていこうと、厚かましくも知ったかぶりをする。彼らは、人々が岡の向こうからやって来るとでも思っているのだろうか。
実際に我々人間は、山々のすがすがしい空気を吸ってもしぼんでしまい、街の粗野な雰囲気や、遠くの民家の煙に思い焦がれるものなのだ。
結論として、文学は人生の一部である。文学が無ければ、人生もさぞや退屈だろう。良い本の代わりとなるようなものは、なかなか思いつかない。
しかし、文学を究めようとして、どれほど大きな大志を抱いたとしても、天上の世界は閉ざされたままだ。
さて、そういうわけで、皆さんも、私の講義が終わったら、悪書に膨らんだ重いカバンを抱えて、広大な文学の世界への冒険へ出掛けてくれ。
脚注
自分の語学力も省みずに翻訳している。でも、訳したくなってしまったのだから仕方ない。間違いがあれば是非ご指摘願いたい。
サマセット・モームのトラベラーズ・ライブラリーに入っている文学評論である。
タイトルは直訳すると、”良書、悪書の見分け方”といった感じである。最後の結論がなんとも痛快である。
※ジョン・メイスフィールド
John Edward Masefield (1878-1967) 英国の詩人
※ジョージア王朝風
イギリス、18世紀、ジョージア王朝時代の美術の様式
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KITAN