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■ジュリアン・ハクスリー『宗教と科学:新しいボトルに入った年代モノのワイン』

『Religion And Science: Old Wine In New Bottles』 (Julian Huxley)

第六章


 さて最後に、これまでの問題についての、実用的な側面について議論しよう。

 多くの宗教的な概念や指針は、我々が考えて明らかな通り、有用でないものがほとんどで、ガラクタの山に積まれてしまったり、競争の中で淘汰されてしまう 事が多い。今日、教養のある人なら誰しも、このような手品の効用、動物的な献身を信じることはない。創世記の記述をそのまま信じる人はいないし、神が人間 のように、肉体と心を持っていると信じる人もいない。しかし、これらはすべて、過去には、このまま信じられていた時代もあったのである。

 新しい考え方が認められ、多くの異なる考え方が退けられるような時代がやってきたのだった。同意して頂けるとは思うが、私が考える限り、神は人格を持た ないし、統治者でもないし、いわゆる精神を持つ存在と考える事は出来ない。だから、多くの信者が神を、瞑想的な、心の自己浄化的なものだと主張しても、こ のような一般的な主張を受け入れる事が出来ない。奇跡、神の啓示というものも受け入れられない。一般的な唯物論者の考える、儀式、自己否定、単なる気休 め、へつらいとして、信仰を考えることも、受け入れられない。特別な聖職者の決まったやり方が外部に表れる様相を受け入れる事が出来ない。そしてまた、我 々が持つ、完全で奇妙で究極の神の観念を信じることが出来ない。神が示したルール、神が明らかにしたという信念を受け入れる事が出来ない。

 このような考え方について、進歩的な考え方の人々は、一様に同意してくれると思うが、私の知る限り、一つ、重要な論点がある。この点については、あまり 議論が進んでおらず、それは、進歩的な考え方の人々には、破壊的な傾向があり、この問題のこうした側面について、あまり考えなかったのが理由である。

 私はあなた方に対して、科学的な手法が、宗教についての議論に基盤を与えた事を伝える事が出来たと信じている。しかしながら、ここで、一体誰が、このよ うな新しい宗教の形態を具現化するのか、という大きな問題が残っている。

 がんじがらめの堅苦しい教義は不可能であろうし、完全性を求める事なども、問題外である。しかし人間は、確かな拠り所を求めるのが常であるし、理論を完 全なものにしたいと考えるものであるのだ。

 このような問いに対して我々は、一つの現実的な解を示そうと思う。我々に究極の答えはなく、我々の努力にゴールはない。しかしそこには、全体を包括する 統一性があり、そして我々は、再構築という考え方で進み始めたのだ。その方向に向かって、今日に至るまで、そして未来に向かっての進化の速度を加速してき たのだ。

 我々はすべてを知っているわけではない。例えば私は、意図的に、不死についての議論を避けてきた。なぜなら私は、このような科学を議論する事に有用性を 感じないからだ。しかし、これまでの研究から得られた統一性の発見は、さらに広い範囲に渡って、知識を広げられる事を示していると言ってよい。これまでに 絶えることなく続いてきた進化の方向性は、今後もこの進化を継続して、そしてまた、リンゴが地面に落ちる事が変わらないと信じて良い。

 進化論についての研究は、さらなる知識をもたらしている。我々は高等動物の組織の柔軟性を知っている。特にこれは、人間が動物から進化する際にはっきり と見られ、原始的な人間の文化から進化し、一般の人よりも、偉大な人物の中に顕著に見られる。この柔軟性が、進化の中で獲得されてきたことは間違いない。 このような柔軟性が、宗教にとって重要である。柔軟性は、宗教が寛容であるために、儀式、集会、教義、権利が、形式的なものに陥らないために必要なのだ。

 社会が複雑になるほど、満足感への適正な対応が必要で、宗教は個人に対して、柔軟に対応する事が必要である。原始的な部族では、わずかな種類の儀式があ れば事足りたであろう。今日のキリスト教では、重要な所は決められていても、細部は変動するシステムが、苦心のすえ作り上げられてきた。しかし、心理がま すます複雑になっている今日、教会へ行く日を日曜日まで待ち、聖書の考え方で満足し、賛美歌のAとMの歌詞と音楽で満足する事は難しいのだ。

 同じように、聖職者というメディアで満足する事も難しい。多くの未開の民族で、聖職者だけがメディアである。ローマ・カトリックにおいても、聖職者によ る媒介は、儀式として重要だった。プロテスタントではそれほどではない。精神的、文化的に発展するにつれ、旧来のメディアはその有用性を失っていったと思 われる。今日、存在している、預言者、詩人、英雄、哲学者、音楽家、芸術家などは、一般の人々には理解の難しい事を発見し、翻訳して、示してみせる人々 である。彼らは、知識の限界と現実の狭間で、媒介するのである。ヘーゲルがこのような人々について述べているが、主要な感情や、すべての精神に共通で、重 要な存在を示し、明るい展望をもたらす所に、彼らの技術があるのである。しかし、発明の広がり、文明の変化に伴って、こうしたメディアの生産物が多くの人 々の利用できるようになった。ざっと言って、1ダースの聖職者より、3〜4フィートの本棚の方が、私には多くを媒介してくれる。メルトンは私に、私の求め る、巨大な教義を示してくれる。ワーズワースは、自然というものを明らかにしてくれる。シェークスピアは、人間の心を見せてくれる。ブレイクは、神秘的な 世界を見せてくれる。シェリーは、知的な快感を味わわせてくれる。キーツらは、美への入り口へと導いてくれる。それ以外にも、我々の両親、よき教師達が熱 心にも、私にとってのメディアとなってくれていたし、その他にも多くの人々が我々への媒介者であり、同じようにプロテスタントの人々にとっては、聖職者以 上に、聖書と聖なるパンとワインが、多くの事を媒介していた事を感じるに違いない。

 何にせよ、これまで宗教体験において、重要だと考えられていたことは、シンプルな社会であれば、祈りや献身によって、共同体の儀式や信仰として得られて いたのだが、信仰を持たず、教会へ行かない人々が増加するにつれ、今日においては、文学、音楽、劇、芸術などによって、取って代わられるようになってきて いる。その結果、宗教の個人的、人格的側面からは、これまでに教会が果たしてきた役割は、必然的に、個人とその体験を媒介するメディア、哲学者、詩人、芸 術家などとの、直接的な関係へと変化してきているのである。

 大衆の信仰や、社会的宗教というものは、現在も存在する。中世においては、教会が、単なる教会としてだけでなく、好奇心に対しての博物館として、美術館 として、劇場として、さらに広げると、新聞や図書館として機能していたことは明らかである。しかし今日は、こうした機能はどれも失ってしまった。大衆の信 仰はその意義を失いつつあり、教会の機能も減少しつつあるのだ。その一方で、宗教には社会的側面があり、自然の統一性が、宗教の統一性を必要とするだけで はなくて、そのような宗教の統一性が、文明においての求心力として、重要な役割を持つのだ。それは国家主義者の主張に対して、連邦主義者の牽制にも似てい る。さらに言うと、多様な考え方が存在し、それぞれの人がそれぞれの環境において生活する今日、共通の宗教的儀式を、他人と一緒に体験する事に、重要な意 義がある。誤解のないように言うと、このような宗教の儀式は、その形式を変化させながら、メディア、聖職者を変えながら、続いていくのであり、またそれが 必要なのだ。問題なのは、大枠としての大衆の信仰において、宗教の効果の単純性、神秘性が変化してしまい、多くの祈祷者や今日の教会の賛美化に見られる ように、宗教の自発性や即効性が『友人社会』の集会において見られる事である。

 何にせよ、新たな論理的前提が承諾されると、それを理解する心理には、制限が加えられることになり、それが個人的なものであれ、社会的なものであれ、宗 教体験に対しても、より多くの勢力と現実が加えられることが重要である。科学が有用になるのは、まさにこの点であり、ここで知識が活用されるのだ。代償、 転換、優美、恍惚感、祈り、献身、こうした宗教的行為を体験する意義、価値は、心理学的に確かな基礎を持ち、不要な部分をそぎ落として、健全な心理の発 達に貢献する事になる。このことは、科学的な概念を基礎にもつ宗教においては、共通に言えることで、このような理解の助けによって、行為そのものがより簡 単で、より効果的なものになるのだ。

 私のここまでの宗教についての議論は、必然的に駆け足で、論点が脱落しているところもあり、心苦しく感じる点もある。私が述べてきたのは、全体のうち の、骨格となる部分に過ぎない。しかしこれが、せっかちな日常に対する、新たな枠組みを提示するために必要なものなのだ。科学がこの枠組みを構築できれ ば、人間の感情、希望、生命力といったものが、より増強するだろう。未来の人間の精神に対して、このような知性の足場を組む事で、(私はそれが、必然的 に、科学的概念を基礎にすると考えているが)より理想の建築物、人類全体の宗教を作り上げることになるだろう。

 ここまでの私の論旨を再度まとめると、
1)第一に、神という言葉が、エネルギー、正義といった言葉と同様に、科学的に根拠のある言葉であることを示した。

2)第二に、神の概念が、我々が存在するこの現実世界の観念を意味するものとして、生物学的な重要性を、現在も持ち、今後も持ち続ける事を示した。

3)第三に、物理学と生物学の間の、物理の統一性の発見、宇宙の進化の方向性の発見が、これまで単なる神学上の推測でしかなかった理論に、確かな裏づけを もたらした事を示した。

4)第四に、心理学は、心理機能を分析して見せる事で、これまでに神秘的な体験だとしてきた事柄に対して、適切な意味づけを与え、適切な精神訓練や、人間 の精神の発展の基礎を作り、精神の昇華という重要な過程の有意性として、神という概念の有用性を示した。

5)そして最後に、科学的な考え方が一般的で、その妥当性は一時的なものではないという理由で、科学的な基礎に基づいて、宗教を構築する事が、宗教に、確 実性や統一性をもたらし、これまで得られなかった、現実的価値をもたらすことを示した。

 我々の議論はやっと始まった所であるが、最後にまた、生物学的に一つ、重要な面から述べておかなければならない事がある。人間という種は、ようやく進化 を始めたばかりなのであり、我々の目前には、未来への広大な時間が広がっていて、我々の膨大な仕事を待ち受けている。

 地球の年表は、その最終章が人類の誕生を持って終わっている。人間にあっては、Weltstoffは、考え、感じる事が出来、美と真実を愛する事が出来 るようになった。宇宙は精神を生み出したのである。これにより、地球の歴史の新たな章が始まり、その章では、我々全員がその登場人物なのである。物質が精 神を宿したのであり、また、今、精神が物質を生み出すようにさえなった。

 精神が物質を生み出すというその創造力が、一つの意味としては、科学そのものである。そしてまた言い換えると、それは、芸術であり、宗教なのである。こ の創造力において、人類が力を合わせようとする事が、決して邪魔されることのないように、我々は細心の注意を払っていく必要がある。


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