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■ジュリアン・ハクスリー『宗教と科学:新しいボトルに入った年代モノのワイン』

『Religion And Science: Old Wine In New Bottles』 (Julian Huxley)

第五章


 最後に、純粋な認識、理性の機能を通して得られる、外的な現実世界の観念を、精神が構成するその働きについて考える必要がある。

 純粋に科学的な観点から考えても、一般化することには大きな意味がある。外的世界に見られる多様性や指向の無秩序の中に、統一性を見出したところから、 人類の偉大な進歩が始まった。しかしながら、宗教が要求するものは、さらに大きなものだ。今ここで、実用性という観点で考えてみると、我々と同じヨーロッ パの文化、伝統の中に有っても、神秘論者は相当な人数がいて、そして、ある存在と霊的な交信を経験したと語る者がいる。

 これはどういう意味を持つだろう。我々はすでに、純粋理性の分析からは、神という存在を議論する事が出来ない事を知っている。この直感が何かの手がかり を与えてくれると考えて良いだろうか。私の考えとしては、そう言ってしまうと、逆に議論を曖昧にしてしまうと思う。直接の認識は、現実世界の認識に関する 限り、結果として、知性が分析できるような現実だけを見せてくれる。この事を否定してしまうと、すべての仮定が崩れてしまう。いや違う。直接的な認識が、 何らか人格に似たものが存在している事を示している。でもこれは、人格に似た何かが現実の世界に存在していると結論付けた訳ではなく、我々の思考の中から 生まれてきているのだ。

 今一度、宗教の歴史を振り返ると、人間というものは精神の中から何かを作り出し、それを現実の世界へと投影する事を、ずっと繰り返してきた事が判る。偶 像を崇拝する。特定のものをタブーとして避ける。人間に似た姿の神という外的な力の存在を信じ、不思議な出来事をそのせいだと考える。これらすべての場合 に、上記のような投影が行われている。人間が、人格の考えから外的な力という概念を構成するのと、類似した現象が起こったと考えて間違いない。そしてま た、このような組織化が、外的な力によって生まれたのだと考えられるのだ。このような投影についてブレイクは、次のように発言している。『すべての神が人 間の心から生まれた事を、人間は忘れている。』

 この議論を、反対派の心理学者たちは受け入れなかっただろう。しかし、我々の思考には、原始的なものから、その他のものへと色々なレベルが存在する事 は、誰もが賛同してくれるはずだ。最も教養ある人々にあっては、潜在意識に関しての、もっと優れた最新の理論を主張してくれるはずだ。

 はっきりとしたシンボルやイメージを使う事は、原始的な思考の中で最も普及している能力の一つだ。複雑な議論は、より平易な言葉によって説明されるので あり、いまだそれを説明する言葉を持たない経験に対しては、すでに存在する語彙の中から、それを表現する言葉を作り出す。この事は避けようのない事実だ が、もっと根本的な過程の働きも見られる。人間の心理は、最も根源的な段階では印象を生成するように働き、単純な印象では表現されない感情や概念に対して は、結合によって、象徴的な印象を作り出し、そして、もともと知覚されていた時とは異なる新しい衣装で包んでしまうのだ。このような思考の過程は夢におい て(白昼夢でも)よく見られるものであり、未開人の思考にも見られるものだ。もっと進化した思考にあっては、即物的な印象や、はっきりとした象徴を用いる 代わりに、任意の言葉や図式を用いる。その場合、印象の新鮮な感じは失われるが、効率的に速く思考することが出来るようになる。しかしながら、我々にとっ て、はっきりとした象徴を用いる思考は一見効率的だが、不自然で人工的な理性の働きからの解放だったとしても、全体的にも部分的にも、自分で気付く以上 に、原始的な思考へと退行している場合が多いのである。

 このような意図しない象徴主義への退行は、客観的世界を外的な対象と過程へと的確に対応付けようとする指向性と共に働いて、宗教の信仰にあるような表現 の形式の元になっている。人類の大多数は、難解で取り付きにくい考え方を基本的に嫌っているからであり、このような傾向は、今後も未来においても続いてい くと考えられる。

 ここで重要な事実がある。懐疑論の専門家は、このような投影や、非合理な象徴化はすべて幻想で、これらすべてを議論からはずすべきだとだと主張しがち だ。でもこれは誤りだと思う。我々は誰しも、自身の経験から、それぞれの物や場所に影響(ここでは一般的な意味で)が内在されている事を知っている。我々 の心理を考えると、これは事実であるのだが、それは現実のものではなく、一時的に存在するものなのであって、しかし、その言葉が示すとおり、我々の生命を 規定し、強く影響を与えるものなのである。指輪や髪留めを愛おしく思う恋人達、子供の頃、若かりし頃を忘れられない男性、愛の詩や絵画に癒される魂、こう いった事やその他多くの事例や、外的な物体を認識して、感情や概念を持ってそれに熱中してしまうという、そしてまた、同じ物体がずっと前に忘れてしまった 感情を呼び起こしたりするという、このような心理の特性を、我々はどう考えるべきだろう。この働きは、各部の協調という形で働くのだが、それはまた、充放 電するバッテリーの作用にも似ている。この作用は、正しく使えば非常に有用な価値がある。さらに象徴というものは、正しい範囲に正しく適用するならば、抽 象概念という名のつかまえ所のない小鳥を閉じ込めておくのにちょうど良い鳥かごになるのである。

 だから同じように、神という人格を示す概念を構築する事は、少なくとも、西洋文明の中に暮らす我々の大多数にとって、真に価値のある事なのである。

 生命科学には、真の意味での人格とは、まずそれは有機的なものであり、次には暗喩的に言うならば、単一の点の中に、多面的な行為が含まれ、その存在のエ ネルギーがすべて、その一点に内包されているというものである。言い方を変えると、人格を持つ人間とは、現実のある側面に対して意識を集中させるものであ るが、しかしまた、必要であれば、その意識を増強するために、さらに別の事実、異なる考え方、感情、回想、意思といったものを呼び起こす事が出来る。組織 化が適切に行われているならば、たった一つの物体に対して、自身のすべてを関連付ける事も可能であるだろう。

 その概念は、人格で行った一般的な方法で、人間の外的存在に対する概念が組織化される際に、同じように働くであろう。

 困惑する人間は、外的現実に対してこう言うだろう。自分の知る外的現実の全体と、自分という小さな個体との調和を求めているのだと。それで人間は、現実 全体を認識しなければならず、このような方法によって、すべての個々の点をつないでいくことになる。自身と外的現実を示す概念の間には、どの問題において もそうだが、ある特定の点において接触する2つのピラミッドが存在し、問題が変わるにつれ、その接触点は、その表面上の位置を変えていく。

 しかしまだ、人格には別の力が存在して、互いに密接な関わりを持っている。単純な物体にはこのような力は存在しない。一つの特性が、もう一つの特性と まったく同じ領域に存在する事がありえないのだ。この事実は、心理を持つ人間と、進化の途中の人間以前のすべてのものとの大きな違いを示している。人間 と、人間以外の宇宙のすべてとの違いである。不連続な存在が、ある有機的なつながりに発展し、人間という個体は、心理という名の融和を成し遂げたのであ る。あなたが私に何らかの新しい概念を説明し、私がそれを理解したとき、我々は互いに融和したと言えるのだ。これはとても単純な例だが、心と心が互いに親 密な関係を持つことによって、高い精神性や限りない幸福につながる場合もある。精神と物質の2つが同じこの宇宙を形成する2つの要素であるならば、精神が 大きく発展した事によって、物質という存在にとっても、非常に低いレベルであったものが解放されて、大きく発展したのだと思う。箱の中に閉じ込められて調 和を切望している物質の気持ちを創造できるだろうか。繰り返しになるかも知れないが、人格の融和、協調というものは、これからの未来での進化において、更 なる発展の基礎になるものであろう。

 ここでまた、議論を元に戻そう。人格と同様に、外的現実の知識を組織化することで、我々個人の人格の融和が可能となる。それゆえ、もし、本来の意味で我 々が宗教というものを獲得したとするならば、それは、一瞬であれ、我々は精神を組織化したということであり、そして、この外的現実の中には、天体や岩石、 水という物質や、進化する生命だけでなく、自己以外の人間や、様々な概念も同じように含まれるのだ。

 私が思うにこのことは、我々が神との関わりを議論する時に起こることだ。我々はこの宇宙においての経験を、我々の魂や精神の働きによって組織化し、そう することで融和や調和が生まれているのだ。衝突が解決され、深い落ち着きが得られ、我々の経験の重要さ、価値を確信することが出来るのだ。

 これまでに定義と分析を行い、ようやく我々は、宗教という概念を取り扱えるところまで来た。宗教というものは、一つの要素としての個人と、また一つの要 素としての外的現実との関わり、調和した関わりである。まず第一に、精神の内部構造は、調和要素に取り込まれ、そして次には同じように、外的現実について の我々の知識も取り込まれる。そして最後に、宗教体験を通して、これら二つが互いに結びつく形で調和するのだ。

 このような調和が一度行われると、それは再度経験したいと思うような貴重な体験であろう。哲学者が高次の統合(私は有機的調和と呼ぶのを好むが)と呼ぶ ような、こんな困難や疑いが解消された状態へと到達した知識は、無念にも転がり落ちるものであるが、しかしながら、最終的にはその調和は我々の精神の細胞 としてしっかりと織り込まれて、生理学によって明らかにされつつある機能に織り込まれていった、その進化の過程での生体の構造と生体の驚くべき調和に類似 している。そうして我々は他の概念を従属させるずっと優位の概念に到達するのだ。これは我々の他の行為についても同様である。言い方を変えると、それは、 優勢従属の原理である。しかしながら、この従属は、強制的ではなくむしろ、自由なものであって、これまでは障害だったものが援護になり、これまで罪と考え られていたものが、勤勉で有能な善のしもべとなる。このことは、矛盾の解消や利己からの脱却といった、すべての本当に価値のある宗教体験についての、根源 的な事実である。これらについての詳細は、ここでは他の著書に譲るとしよう。Miss Underhillの神秘主義についての著書、William James氏の『様々な宗教体験』Thouless氏の『宗教の心理学』等を参考にされたし。

 ある一面だけについて述べよう。このような体験は哲学的には、究極のものではないにせよ、我々にとっては究極のものである。もし私が、アイルランド人で あるならば、この究極性も我々の共同体や我々が知覚する現実に対しては、相対的なものに過ぎないのかも知れない。もっと充実した、さらに究極のものを知覚 する事は、我々の精神がやがて成長してゆき、もっと豊かで完全な体験を手に入れる時までは、我々には不可能なのである。William James氏が好んで語っていることだが、我々の精神がこの宇宙に現存するものの中で、最も高次なものなどと考えるべきではなく、我々の周りにいる動物に 対してさえも、高等だとは言えないはずで、なぜなら我々は、自身の基準で判断しているだけだからである。

 さらに言うと、我々が観念や概念を構築する力によって、そして我々の未来や過去の現在への集積によって、我々は巨大なものを、一つの焦点に集中させる事 が出来る。このような体験によって、それが宗教を通じてであれ、恋愛を通じてであれ、芸術を通じてであれ、我々はシステムの中で関連しているだけでなく、 究極のものに触れたのだと言えるだろう。我々は死ぬ運命にあるが、永遠のものと、ある瞬間は一体になったと言えるだろう。間違えないようにしたいが、我々 が到達した『究極』『永遠』というものは、現実のものではないことは明らかで、我々が知りうる限りにおいての、類似した何かでしかないのだ。

 さてここまでに述べた、考察の第二段階をまとめると、宗教とは単なる儀式にはとどまらず、魂と魂とを調和たらしめ、罪の意識を拭い去り、本能を昇華し、 無意識の力を自身のために活用し、外的現実の概念を組織して、一つの心理として神という概念を構築し、互いの人格を融和する事で対応しあう、こういったす べてのものを含むものとして定義できる。

 しかしながら、これに対してまったく異なった結論もあり、それには、James氏の観念などが挙げられる。『わずかな抵抗は、神が存在するという観念で ある。しかしながら、神は有限である。私が伝えたいのは、これらの言葉は、一般の人々が神や一元論を考えるときに用いるものだということである。 (sc.Absolutist)』『神の観念を逆説的にしている完全性は、実際にはずっと離れた場所で、神自身のための概念を取り扱う専門家達の心理へ の、冷たい付随物でしかない。(James, '09, P311)』

 これまでの私の議論は、知性によって無限のものを捉え無私の行為を肯定する、神の体験という究極の事実を無視し、分析不可能なものを取り扱ったとして、 非難を受けるに違いない。私としてはこれに対し、2つの答えを用意している。一つは、分析不可能な経験は個人的なものであり、それを伝える事は難しいとい うことである。(これについては、後述する)もう一つの答えはもっと重要なものである。大きな意味で、人間性とは、感情体験だけでは不十分だが、おおむね 満足してもよく、加えるなら、我々が今後も継続すると考える限りにおいて、知性によって知覚した現実を、感情体験と同じように知性によって形式化すること が必要だということだ。

 しかし、一般的な経験を考えると、さらには、純粋な知性の真空にあっては、このような形式も無害なままではいられず、行為に対しての影響力を持つ。不可 思議な力に影響を受けていると信じている人は、この影響力(という神聖な仮定)を制御仕様として、儀式に多くの時間をかけるのだ。神を合理的に、人間に似 たものとして信仰する人々は、自分が生産したものの多くを、神に捧げるであろうし、さらには神を鎮めるために、仲間を生贄に捧げることもする。天の啓示を 信じて、自分自身は人生の生と死に対しての啓示を受けたと考えて、自分とは違う人々を滅ぼそうとして、観念を守るための血なまぐさい戦いに乗り込む人々も いる。神を究極の人格的なものとして信仰する人々は、次のような馬鹿げた結論に到達してしまう人々もいる。自分の信ずる普遍の心理と矛盾するからと言っ て、本来、唯一の知識の源泉である自然の研究から得られた事柄を否定するというような人である。しかし実際には、この人々の仮説からの結論は間違ってい る。こうした人々は仕方なくこうした事実を神の意思として受け入れているのであり、ここでの神の意思とは、実際には宇宙の方向性を、自分なりに解釈したも のなのである。

 遅かれ早かれ、誤った考え方は、誤った結論に結びつく。人間は、よく考えれば単なる象徴でしかないような経験上の方法や概念で考えるようになってしまう ものであり、そうして、難しい結論には辿り着かないものだ。人々は何かしらの宗教を持っていて、それは、いわゆる確実性が、単なる隠喩の寄せ集めでしかな かったとしても、農業が経験の積み重ねと迷信に基づいて行われるように、その人達にとっては何らか役に立つものなのである。しかし、科学的方法に従う事 で、農業の効率は大幅に向上することに気付くように(豆を育てる代わりに硝酸系の肥料を使うように)、また宗教の象徴とあまり変わらず、電気についての象 徴的な概念しか持たない作業者では、発電所を運営する事が難しいように、だからもし、宗教の知的な部分に科学的な分析を用いる事が出来なければ、宗教の可 能性に気付く事すら出来ないのである。ある意味では、すべての知識、知的な概念が、象徴でしかない事は事実である。しかし、ある事物を取り上げて、それを 何らか類似した概念で象徴化する方法は、科学の象徴化とは大きな隔たりがあるり、科学においては、科学的な数値を見つけ出そうと努力することで、特定の現 象をより扱いやすくするのである。

 これだけでなく、理性の批判を受けない宗教は、邪悪なものへと変化する傾向がある。宗教というものは、自然の行為であって、常識的な精神を必要とする が、もっと根源的なものが支配的になってくると、本能や感情といったものは、合理精神による自省を受けなくなり、歴史から明らかなように、宗教は、凶暴で 破壊的な力へと変化する。Lucretiusの健全な精神も、宗教が最大の敵だと述べている。
『Quae caput a caeli regionibus ostendebat Horribili super aspecta mortalibus instans.』
彼はまた、宗教から受けた不敬に対して、こう答えている。
『- Quod contra saepius illa Religio peparit scelerosa atque jmpia facta.』
多くの思想家、改革者が同じように感じているだろう。

 Jungのように、宗教は単なる幻想であるが、多くの人々にとって必要であるから、奨励すべきだと言う人もいる。しかし、我々が選んだのは、広くて正し い視点だと、私は信じている。すでに述べた通り、人間においては、進化は新たな段階を迎えており、そこでは、新たな目的や価値が生まれるだけでなく、新た な進化の可能性が生まれてきている。しかしながら、この新しい可能性は、人間という生命に与えられた新しい能力を発揮して初めて可能になるものだ。文明の 発展とは常に、人間の中の動物的な部分と、人間だけが持つ部分との衝突である。言い換えると、高等な動物と合理的で精神的な存在との衝突である。だからも し、宗教が非合理だとするならば、人間は、月に吠える犬、真夜中に騒ぐサル、無邪気な小鳥などといった動物のちょっと変わった奴とか、一種の変異体でしか ない事になり、やたらと小鳥達の縄張りを荒らす侵入者といった所で留まってしまう。Robert BrowningのCalibanにある、『自然宗教』の事を思い起こして欲しい。このような考え方はどのように生まれてきたのだろう。しかし我々が真の 基盤を見出し、衝動的行動を理性の管理下へ、理性のもつさらに高次の価値へと従属させたとき、それは、個人として、動物の種として、我々人間の目前に広が る新たな地平を征服する際の、一つの道具として役に立つであろう。

 宗教においては、類推や象徴化に重きを置きすぎる危険があって、科学的知識や、あるいはもっと高次の究極の確実性からすると、ここから一つの結論を引き 出してしまうのだ。その結論とは、三段論法の絶対的な権威で裏付けられているのだが、実はその土台は柔らかく、前提そのものに誤りがある。

 これを事実とすると、我々には、我々の理論を現実世界にもっと合うように改善する努力が必要であって、判っている事実を判らない事に適用する事を安易に 行ってはいけないし、古い間違った理論をすぐに捨てて、すぐに結論付けてしまう人間の悪い癖から実害が生まれないように気をつけなければならない。

 でなければこうした事が、長い目で見た時、宗教という個人的でユニークな経験を邪魔し、悪評を立てることになる。そしてそれが残ったとしても、疑念に覆 い隠されて、信じた人が道に迷ってしまうような事になるのだ。

 だから我々は、もっと違う道を進まねばならない。過去にはいつもそうであったが、宗教は一面的なものであり、相反する2面ではなく、異なる側面を持つも のである。知的な神学者達も、外的現実についての、それなりの概念を構築しているが、外界に対して、内的現実を構築するために、自分達の建物を建てるとい うような、多数の人々に身をおとしめている。彼らの結論には実践がなく、埃のように乾いている。その一方で、感情的な人々は、組織する力、直感の力を持た ず、神秘主義者は、自身の精神を立派な建物へと作り上げてゆき、その中で、新たな地平において、より高度な調和の中で、外的現実を見るための、精神装置を 作り上げるのだ。しかし彼らは、外的現実を詳細に分析する事をしないので、そしてまた、単純な象徴や、隠喩でしか物事を語らないので、自分達の得た知識を 他の人々に広めてゆくことが出来ないままなのだ。彼らは技能を共有しようとしない技術者、科学者の部類に入らない技術者である。我々は、芸術のよしあしが わかるように、絶対的な意味においても、個人的な意味においても、神秘論のよしあしがわかる。そして、良い神秘論は、良い芸術と同じように、何らかの際 立った重要性を持っている。しかし、純粋に象徴的な芸術にも似て、神秘主義そのものにとっての価値を、他の人々に分け与える事が難しい。フランス人の言う ように、確実で不変な事実に対して結び付けられていないからである。だから我々も、神学者は文法ばかり教えて、精神について語らないように感じるし、真に 重要な経験については語らず、ただ我々が経験した事を理解する方法しか語らないと感じるのだ。

 重要な問題について、一言述べよう。神秘主義は、突き詰めると、その先験性が宗教の重要性の証明だと言う。その経験の方法が、日常の経験を重要なものに するのだ。日常生活の事柄に、新たな価値が付加されて、重要性が生まれる。不調和から調和という新たな地平へと引き上げられる。しかしこれは、単に神秘主 義だけによるものではない。判りやすい例を挙げよう。恋愛の経験をについて言えば、人類は、これをもつ人々、これを求める人々、これを嘲笑する人々の分け る事が出来る。しかし、偉大な哲学者は、超越したものと人類とを和解させる。これは真の芸術家や、著名な人道主義者の力と同じである。

 この技術用語の重要性のもとにあるのは、最も多様な側面において機能する、特別な心理機構の産物である。我々がある技術用語を、他のもので代用しようと する場合、単一で支配的で包括できな時代のための、何らかの人間活動に対して、究極の価値と呼ぶことが出来るような、有用な要素から構成されているといえ る。しかし、心理学的に言うと、究極的価値の始まりは、特定の価値を一般化することに依存している。特定の価値を出来得る限り高めようとするのだ。それに 加えて、心理組織のその他の部分を、永続的、あるいは一時的に支配する形で、関連付ける。こうする事で、価値は結合され、影響力を増し、心理の他の部分か ら支持されるようになる。

 言い方を変えると、この先験性の問題は、神の啓示、神秘的な経験というものではなく、昇華の特別な例だと考える事が出来る。だからこそ、心理学的見地か らの分析が行われ、理解し一般化し、一般の人々がそれを利用できるように広める事が可能なのである。

 伝統的な宗教に対しての最も強烈な反対者は、卓越した道徳性を主張する事が多い。真理に関して、実用主義で功利的な人々がいるのだ。こういう人々は、善 についての考え方に捕らわれている。だから例えば、功利的な結婚をしようとする人は、自身の恋愛の重要性から、非功利的な結婚へと、まっさかさまに落っこ ちてしまう事になるのだ。

 さて私が、宗教についての議論をここまで広げてきたのは、宗教について、色々と書いている人々が、先験性、特殊な価値、重要性といった問題を強調するか らである。でもあなた方は、長い目で考えるなら、派手な題目で人目を引くようなやり方をすべきではない。仲間はずれにされてしまうだけだろう。

 先験性は、我々がこれまでに述べてきた事柄の経験的な側面である。それは、統一性と多様性の発見であり、一致しないものを調和を持って統合し、さらに高 次の支配的な価値を生み出し、心理的な存在としての我々の全体に取り込む事なのである。宗教における先験性は、芸術や恋愛における先験性とはその対象が異 なるのみである。恋愛においては、対象と理想的価値との矛盾が、皮肉屋の嘲笑を買い、その他の人々の哀れみを呼ぶ。芸術においては、一般的なものを集め て、一つの作品として美を生み出したり、詩人は、失敗や死というものから、悲劇を作り出し、日常を永続性に引き上げる。こういったことがどれも、神秘主義 が、悩める魂と神聖な共同体の無限の差異を変化させ、それが先験性と同じ事なのである。それは自己完結しており、自身の重要性を内包している。こういう立 場において、科学は、宗教に協力することができる。先験的な現象を分析し、解釈し、真と偽を結合し、誤った批判を退け、超自然主義や、曖昧な理論を、適切 な自然の因果律で置き換えるのである。


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