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ジュリアン・ハクスリー『宗教と科学:新しいボトルに入った年代モノのワイン』
■ジュリアン・ハクスリー『宗教と科学:新しいボトルに入った年代モノのワイン』
『Religion And Science: Old Wine In New Bottles』 (Julian Huxley)
第三章
我々人間が宇宙というものを理解する概念と、その宇宙との関わりが、我々の生活に大きな影響を与えている事は一つの事実である。この人類学的な現象に何
らかの名前を付けようとする時、神という言葉が挙がる。しかし我々は、神という言葉を他の言葉の領域まで広げて考える事があり、それは例えば、愛、人生、
美といった一般的な意味を持ち、色々な意味で捉える事が出来る言葉である。我々はここで、神という言葉を限定して、少し新しい意味づけをしようと思う。
上記の意味においては、神は宇宙そのものであり、我々の精神が全体として把握する限りにおいて、概念に実体を与え、それが結果として、連続する一連の事
象として、精神に影響を与える事になる。(※)これらは単純な個々の事象の総和ではなく、曖昧で不完全ではあるが、単一の概念であり、複雑ではあるが、統
合されたものである。またこの性質は、宇宙そのものが持っているのではなく、精神によって認識される事によって生じている。このように考えると、神という
言葉の上記のような意味以外には、あらゆる事象を、少なくとも科学的に、我々の理性の範囲で包含できるものは、他には見当たらない。宇宙とその概念の背後
に、究極の神の存在を考える事が出来るわけである。しかし、このような発言を裏付けるような論証はどこにもなく、Spencerが指摘したように、不可知
で、我々とは直接的な関係を持たないものである。ここに述べたような、我々の知っている宇宙の側面が、我々が直面している難問へのヒントをもたらしてくれ
る。思うに、我々の論旨は貧弱で、神という概念を限定した範囲で考えたとしても、あまりに不完全なままである。しかしながら、こうした現状を受け入れるな
らば、今、我々が手にしている神という概念よりも、はるかに強力な神がどこかに隠れていて、我々に発見されるのを待ちわびているということなのだ。
(※この問題を科学的に議論している人達が、意図せず、似たような結論に辿り着いていることは、興味深い。例えば、Jevons('10)は、『神
(God)』という言葉は用いず、『神の概念(the idea of
God)』という言葉を、ほとんど毎ページで使っている。早急かもしれないが、もし、世界にあって影響力のある存在として、また人間との関係において現実
的な存在として、神とは外界に存在する概念であるならば、上記のような婉曲な表現が用いられて然りである。)
これらの問題に取り組むために、どのような手順を踏むべきかを考えるのが先決だろう。宇宙というものは、それが我々に対して影響を与えたときに初めて、
機能し、概念を生み出し、そして、我々の精神との関連を持つものである。
神という概念は、宇宙を動かす力として、外的に論拠を持っている。宇宙という存在の総体は、我々自身よりもはるかに巨大で強力で、その作用はある種の方
向性を持って機能している。これらの現象は、他の現象と同じように、我々がconstatateするものである。我々が宇宙を経験するときに発生する事象
と、宇宙の力から受けた作用は、紙についての客観的な知識を与えてくれる。これ以外の神についての概念は、我々精神の内面の事象であり、我々の精神作用の
形式に規定される。
ところで、我々の知るような近代の科学の発展、特に進化論に関する研究の発展は、神という概念を語るための客観的事象を、かつて無いほど沢山、我々にも
たらしてくれて、この問題に取り組むための足場を、確かなものにしてくれる。
神という概念は、暗黙のうちに、人格という概念を持たない事がわかる。神は人格を持たないものである。この特徴的な側面については、このエッセイの後段
で議論する事にする。
ここで一度、内的な実存性について議論する必要がある。人類はこれまでの生物にはない新しい精神を持っている。人間は社会的動物であり、言葉を操る。人
間は集団で協力することで高度に発達した能力を発揮する。このような協力によって、これまでの生物には不可能であった、大きな可能性を手に入れた。まず始
めに、人間は自分の経験に、新たな順序付けを行う事が出来る。それは、バラバラな記録と、インデックスで順序付けられたカードのような違いがある。このよ
うに精神の組織化によって、柔軟で無限の発展を可能にし、概念を多くの方向へ特殊化することも可能になった。
しかしまた、人間の精神には、丸ごと、あるいは部分的に、未発達のまま残されるものもあるだろう。日常の生活の中で我々が使わなければならない能力、他
の生物が生存のために用いるような能力も存在していて、それが我々の精神の中に、断片的に、潜在的に残っているのだ。
この事が現代の心理学に、重要な一つの重要な成果をもたらした。潜在意識の発見に関する研究がそれである。ここでは詳細な議論を避け、簡単な説明にとど
めよう。我々が『潜在意識』と呼ぶとき、それは色々な意味で通常の心理と同じような働きをするが、我々がそれ自体を心理として意識できないという点のみ、
通常の心理とは違うものである。これらは我々の神経器官と同じ部位に関連し、また一般的な生体作用として機能する。おそらく神経器官の同じ仕組みで働いて
いるのだと思われる。
独立した我々という個人の意識の基礎を考えてみよう。個別の存在として意識される自己の精神は、組織化の長い過程を経て得られるものである。生まれたば
かりの頃、我々が持っていたのは、いくつかの本能と、感情反応のみであり、外界からの刺激を受けても、ただそれが消えるのを待つ事しか出来ない。それがや
がて、我々の学習能力によって経験を集積してゆき、その経験を元にして、自身の本能や振る舞いを統制する事が出来るようになるのだ。我々は経験を自分の中
で統合し、そしてもともと我々自身が持っていた反応行動を変えてゆく。強く印象に残るような経験は、互いに関連するような他の経験にも影響を与える。この
ようにして我々は、成長の過程で、大きくはないが複雑な自分自身のの小宇宙を作って行く。それはちょうど、我々が、母体の中で、大きさは変わらぬまま、生
体機能を分化させて、複雑な形に変化してゆく様子に似ている。
経験や遺伝された志向性の中には、我々の精神の主要部分とは結合されないままのものもある。それはおそらく、その経験が十分には意識されなかったこと
や、他の経験との結合が働かなかったというような場合であるだろう。これは例えば、建物を建てるために用意されているが、今はまだ地面に残されたままのレ
ンガのようなものであろう。
個人の意識において、調和をもたらす心理の働きは、特筆に価する。普通に考えれば、我々の心理の中で矛盾と葛藤が起こって、エネルギーを浪費してしま
い、どちらの行動を取るべきか明確な判断もできず、2つの椅子の間に落っこちてしまうといった、生物的に致命的な退化を起こしてしまってもおかしくない。
子供が暗闇を怖がるのは、本能にそのような指向があるからである。しかしまた、夜になれば暗くなり、我々は睡眠を取るという指向もある。ここでは互いに矛
盾する2つの反応がある。我々の心理の中に一つの反応が起こり、そしてまた同時に、まったく逆の反応が起こって、同じ道を逆向きに逆向きに向かってくる。
両方が働くと、ここでは矛盾が発生し、我々の仮説では、寝つきが悪くなったり、幽霊を想像して眠りが妨げられ、子供たちの心理が苦しむ事になる。
こうした恐怖心からの葛藤は、大人の心理においても起こるものである。例えば戦争神経症などがそれである。その他にも、性本能から来る葛藤も考えられる
だろう。
こうした葛藤は、我々の指向や経験が潜在意識の中へと移行している中で解決されてゆく。一つの反応が相反する他の反応によって対向されるという事が減っ
てゆくのだ。こうした潜在意識への移行は無意識のうちに行われる。これを我々は、『抑圧(suppression)』と呼び、また一方で、意識的に努力に
よって解決する場合を『抑制(repression)』と呼んでいる。前者の場合、自己の矛盾は完全に解決されるだろう。しかし、後者の場合には、抑制さ
れる心理は永続的に意識される事になり、抑制の努力を永続的に行わなければならないことになる。
建物とレンガの例をもう一度持ち出すと、『抑圧』では、他のレンガと形の合わないレンガは地下室に片付けてしまうようなものだ。また、『抑制』の場合
は、労働者達が違う建物を作ろうとするのを、他の労働者達が止めさせようとする、と言ったところだろうか。
しかしながら、潜在意識とは、どのような形で組織化されるにせよ、我々の中に常に存在しているものである。我々個人の日常生活とは関連しない所で、曖昧
で緩やかな関連を意識に対して持ちながら、広い道路ではなく、非常に狭い道を経由して、我々の魂か、魂らしきものの残留物へとつながっているのだ。
また、これらとは別に、今、我々が議論している問題に大きく関わる精神過程が、我々の中に存在している。これは、『昇華(sublimation)』と
いう働きである。限られた行数の中で、明確に説明する事が難しいが、これもすべての精神過程に関わる働きである。判り易い例としては、恋愛が挙げられる。
単純な性本能が、他の本能や、過去の経験と結びつき、事象はまったく新しい概観を呈することになる。昇華された本能は、昇華されない本能よりも、より高度
の充足を与える、と言う事もできるだろう。単純な性衝動の充足は、心理的な欲望の充足とは、ほとんど関連を持たないが、熱烈な恋愛の充足は、精神機能のす
べてを巻き込み、回想や本能を、非常に高度な、希望や理想といった概念へと収斂する。
上記のような場合、昇華はありふれた本能の対象に対して行われる。しかし、人間の精神は柔軟であり、もっと複雑な形も起こりうる。例えば、本能が昇華さ
れるだけでなく、他の客体にも対応付けられるような場合である。我々の精神の中の、歯車、らせんが働いて、性本能が、より高次の欲求のはけ口を見つけ出そ
うとし、冒険や芸術、そしてまた、聖テレサのような、宗教の儀式の恍惚感へと駆り立てることもある。
それはちょうど、我々という水車を回して、地下水路へと流れ落ちてゆく急流のようなものだ。我々を突き動かし、水車を唸らせた後、流れは消えてゆく。で
もその中で、さらに高次の所へと引き上げられるものもある。我々はその方法を学び、我々の水車に新しいパイプを取り付け、流れ落ちる水を元の高さへと戻し
てやり、新たな水車を回して、違う仕事をさせるわけである。
ところで、昇華に関して、もう少し説明を加えたほうが良いだろう。近年の生物学の研究から、低次の生命や、高等生命の発生初期には、頭部が他の部位に対
して、優位性を持っていることが判っている。頭部は最初に独立して発達するとともに、他の部位の形成に対して影響を与え始める。様々な器官を制御し、器官
の変化を促し、単体としてまた全体として、高度な機能を形作ってゆく。
昇華においても、これと非常に良く似た課程が見られる。一つの概念がその他の概念に対して、優位性を持つことが出来る。あるいは、基本的な優位の概念と
の結びつきから、我々がその概念をより強く意識することで、概念の優位性が生まれるのかもしれない。
注意しなければならないが、『集中』というものも、大事な精神機能の一つである。強烈な光が特定の物事を照らす、という比喩も可能だが、精神の特定の水
路の流れが速くなる、という例えも出来る。他の水路とのつながりを持つ、ある水路へと水が流れ込んでゆき、パイプの中の流れが急になることで、つながった
他のパイプから水を引き込むといった働き方に似ている。
これまでの結果から、昇華というものは、本能の抑制、抑圧やや、感情経験と言ったものを含む事になる。そしてまた、それらや、他の本能の単なる集合体で
はなくて、それらの総体として新たな機能となり、頭脳が体をコントロールするように、優越した本能として働くのである。
性本能を抑圧する場合、感情、宗教生活は、暴力的というよりは、つつましいものだ。性衝動と宗教心が同じ心の中に同居し、矛盾こそするけれど、統一され
ていないというとき、聖ポールのような、まさに生来の人間の状態になる。しかしそこで、宗教心が優勢になり、性本能をその中に取り込んでしまう状態になる
と、まったく新しい形態、指向が生まれ、非常に高次の感情を経験する事になるだろう。恐怖心が尊敬の念へと変化し、性本能から、芸術や博愛が生まれるので
ある。
どの場合でも、新しく、より複雑な精神活動、精神器官が発生してくる。このことは、生物学での進化論にも同様の現象が見られる。より複雑な形態が発生
し、それが継承されて行くのだ。
ところで我々は、先天的には精神の調和を渇望しながらも、精神の構造の不調和に苦しんでいる。最もよく見られる不調和は、本能による自己認識と、他の機
能による認識の不調和である。例えばそれは、人間の利己心と、社会的、外的な要求との不調和である。
思うに人間という生物は、進化のかなり後段において群居するようになったのだと思う。自然淘汰を経て、真に生物学的な意味で、部族としてまとまって暮ら
すことで、危険を防ぐという本能を身につけたと思う。しかし、このような社会性の本能は、非常に単純な形態の社会にあっても、古くから我々の根底にある、
個人主義者としての本能との間に、完全な調和を持つことは難しい。そして我々の生活は、より複雑に選択の幅も広がり、矛盾や葛藤もますます増えるのであ
る。
そしてまた、婚姻を行う年齢に達するずっと以前から、性的に体が成熟することから生まれる不調和も、良くあるケースの一つである。
これらどれについても、抑圧、抑制、昇華の組み合わさった現象が、必然的に起こっているのだ。
人間の群居しようとする習性は、言葉を操る能力、学習能力、一般化する能力等と同じように、この世界において、粘り強く伝統を積み重ねてゆく事で、新し
い事象を作り出してきた。ここで私は伝統という言葉を広義に使っており、我々が言葉、模倣、その他の記録方法によって、世代を超えて受け継いでゆく、我々
の精神に含まれるものすべての事柄を指している。言語、善悪の基準、慣習、発明、国家意識、これらを含んで、すべてのものが、人間の個人の環境を構成する
ものとして、伝統を為している。この意味で、伝統とは、明らかに、必然的に社会的なものである。しかしながら、我々がどれだけ個人性を求めても、社会環境
の中の一部である事からは、逃れられようがないのである。
人間の群居本能から来る、一般的な影響は、人間がその群れの中で、伝統と調和を持って生活したいという欲求に見られる。群れ、伝統、という考え方は、国
家と、その階層から来ている階級と、徒党、科学と芸術、修道生活の終わりと、世界中の文明のつながりである。そこには常に、群れというものがあり、群れが
どんなに小さくても、また筆者の死後でも、人間は必ず何らかのコミュニティーの一員であって、コミュニティーの伝統との調和を持とうとする生物なのであ
る。
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KITAN