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■ジュリアン・ハクスリー『宗教と科学:新しいボトルに入った年代モノのワイン』

『Religion And Science: Old Wine In New Bottles』 (Julian Huxley)

第二章


 宗教というものは、これまでにも、何百通りもの方法で定義されてきた。知性という観点からは、教義、神話、宇宙観として定義されてきた。感情という観点 からは、畏敬、恐れ、会い、神秘的な賛美、霊交として定義されてきた。そしてまた、行為という観点からは、崇拝、儀式、犠牲、道徳として定義されてもい る。Matthew Arnoldは、「感情に色づけされた道徳」と定義した。Salomon Reinachは、「人間の能力を適切に制限するための良心のためらい」と定義した。Jevonsは、神の経験を主な特徴として定義した。このように色々 な定義があるが、これらすべての意見を包括して取り扱うような、共通の尺度を持つことは可能だろうか。すべて宗教など幻想だと決め付けて、ゴルディオスの 結び目を切り落とすようなやり方は拙くないか。いや。どういった観点で考えるかは問題ではない。たとえ宗教が幻想だったとしても、事実を検証することは出 来るのだ。たとえ幻想だったとしても、何らかの根拠があるはずなのだ。

 それに、宗教が幻想だと疑ってかかる必要はない。結び目はおそらく解かれるのだ。儀式、教義、道徳、神秘的体験、これらはすべて、我々の目に映る宗教の 一側面であり、宗教そのものではない。宗教そのものは、一個人の人間の存在と、彼を取り巻く宇宙全体との相関として捉えるべきなのだ。例えば、法廷での儀 式のように、宗教的でない儀式というものが存在する。道徳についても同様に、宗教とは関係を持たない、禁欲や、terre a terre に見られるような道徳性もある。信教を取ってみても様々な形があり、例えば、宇宙に関する複雑な科学パラダイムも一つの信教と言えるだろう。恋人達や詩人 が歌う恋愛は、宗教的ではないが、それに類するような恍惚感である。

 しかしながら、宗教というものは、人間性全体に関わるものであるから、知性的プロセス、行為的プロセス、感情的プロセスのすべてに関わるものだ。そして また、人間は、概念を抽象化して総合化する能力を持っているのだ。言い換えれば、我々の知性は、概念を抽象化し、総合化せずには居られないものなのだ。そ の結果、意識的であれ、非意識的であれ、知性は体験した現象のすべてを自身の体系の中へと組み入れて、一様な枠組みの中で全体を理解しようとするものなの である。

 感情的な面、知性的な面、道徳的(行為的)な面のそれぞれに、個人によって偏った傾向があるだろう。でもこの3つを互いに完全に切り離して考える事は不 可能である。

 さしずめ我々は、主に知性の観点から、credalな面から、この問題に取り組もう。科学というものは3つの中で特に、知性に関わるものだからだ。ま た、より一層、継続的に論旨体系の改造を行う必要があった事も理由の一つである。そしてまた、現段階では、知性面からの議論の方が、問題の本質を掴みやす いとも言えるだろう。

 さて、これから我々が取り組むべき問題はどこにあるか。宗教という概念を指す言葉の中で、我々の最も一般的な言い方は以下のようなものである。
人間は自分自身に関するよりもまず、自分を取り巻く外界と衝突しながら生活しなければならない。このような外界の力に比べると、人間の存在は微生物のよう に小さく、また人間の一生は長い歴史の中の一瞬に過ぎない。人間はその心理の特性から、必然的に、世界の構成、世界と自分との関わりを統一的に理解しよう とする。(自分が関わる限りにおいて、世界を理解しようとする、と言った方が良いかもしれない。)このような背景から、我々は、神話、教義、信教と言った ものを持つに至るのである。

 これまでの議論では、すでに見たとおり、伝統的なキリスト教信仰と、一般的な自然科学の間には、大きな隔たりがあるように感じられる。宗教は、神という 名の全知全能の創造者、統治者、救済者の存在を主張する。その一方で、自然科学は、自然の現象を自然法則という名で呼び変えようとする。言い換えれば、物 理特性の体系から必然的に順序だてて発生する現象だと説明しようとする。神の領域とその力を奪おうとする。進化論的な生物学と心理学が発展しつつある今 日、神の領域はすべて、自然科学によって取って代わられてしまうのではないかと感じる。

 このように述べると、反対意見で完結してしまう。しかし、ここで我々はもう一度、自分達の議論に話を戻そう。そして、宗教信仰の歴史を振り返り、科学が 我々に与えてくれる宇宙の知識について、これまでとは少し違った観点で、議論しなおさなければならない。

 我々人類も歴史の中で発達してきた。初期の人類の発達は、肉体的、精神的な面での発達である。これがやがて、時代とともに、人類の発達は主に、伝統、思 想、業績といったものへと変化してきた。こうした人類の変化に伴って、宗教の概念も変化してきた。

 初期の人類には、神という概念はまったくなかった。人々が感じていたのは、自然の営みの中や、偶像、呪文など特別な事物の中に秘められた見えざる力だけ であった。それに、人々は、人間という存在を、生活している世界と切り離して、個人として意識する事は無かったのだ。

 やがて人間の中に個人としての、自分という概念が芽生えてくると、自分を取り巻く外界の力に対して、自己の存在性を意識するようになり、このような意識 が具現化していくことで、神という概念が生まれてきた。いくつもの悪魔があるという考えが、多神論を生む事になった。

 最初は、道徳といっても旧式の慣習しかなく、外的影響と人間の言動は切り離して考えられていた。やがて近代文明の発展が始まると、慣習も変化を始め、純 粋に合理的な観点から言動や信教が判断されるようになり、様式も統一されていった。このような変化の結果、そしてまた統一された様式が、理論的にも道徳的 にも根拠を持った事で、必然的に多神論が生まれてきた。このような宗教の転回は史料にもよく残っている。Jevonsは彼の「神の概念」という著書にその 考察を述べている。やがて多くの神の中に、一人の秀でた神がいるという考え方が発展し、一神論の教義が生まれた。

 そもそも一神論の始まりは、集落や部族の考え方、他の部族とは違う、我々部族の神、という考え方であった。このような特徴は、今日の宗教にも見られる。 Bang氏の著した戦時ドイツの名言集を読んだ事のある方は、プロシア人牧師が国家式典の際に神を指して使った言葉を覚えているだろうか。私の記憶による と、
「Du, der hoch uber Cherubinen, Seraphinen, und Zeppelinen ewig tronst」(J.P.Bang, Hurrah and Hallelujah, LOndon, 1916)
しかしながら、この考え方も自己矛盾をはらんでいて、人類には唯一の神のみが存在するという考え方に行き当たることになる。また、人間の体、感情、言葉、 思想をもとに、曖昧で神秘的な魂として分析された、古代の擬人的な世界観は、徐々に衰退していく事になった。それらは象徴としては残ったが、神を一人の人 間のように描く事しか出来なくて、意図的に否定される事になった。神は人間とは違い、全知全能、物質的な制約を越えた存在、人間を越えた存在でなければな らなかったのだ。それでもまた、神はある種の人間性を主張する。言い換えれば、人間以上のものであるにせよ、人間に似た、心理的精神的な要素を持つことを 主張しているのだ。時を経て、神の人間性は、人々の日常的な思想や特性よりも、人々の理想が純化したものとなっていった。だから神は、一面でこの世界に内 包されたものでありながら、他の面では、統治者として、この世界から遊離した存在なのである。神をどちらとして捉えるかは、各自の思想の嗜好に任されてい る。こうした背景を踏まえても、宗教の思想体系は今もなお健在であり、今日、科学の思想と対峙したまま、硬直状態が続いている。

 ざっとここまでに、神についての考え方が、どのように発展してきたかの概略を述べた。しかしながら、自然や宇宙についての知識やその捉え方は発展したと 言えるだろうか。科学はこの宗教との硬直した関係に対し、どう答えるべきだろうか。

 我々が取り組むべき事象には、大きく3つの分野がある。無機的領域、有機的領域、精神敵領域の3つである。無機的領域については、化学と物理学が、我々 の良く知っている宇宙像を描き出してくれる。この世界にあっては、自然界の中のエネルギーはたった一つの形態しかなく、それが列車を走らせたり、人間を動 かしたり、熱や光を発したり、石を落としたりする。存在する物質もたった一つの形態を持つのみである。木も、人間も、川も、石も、空の雲も、宝石も、粘土 も、すべて限られた種類の元素に分析されてしまう。そしてまた、これらの元素はと言うと、量子論の観点からは、電荷の差や組み合わせの違いがあるだけであ る。これをつきつめて言うと、すべての物質はたった一つの区別できないもの、すなわちエネルギーというものに集約される事になる。この世界では、それぞれ の事象に主観的要素が入り込む余地はない。稲妻も噴火も物理組成の観点から必然的に起こる現象である。同様に、宝石の輝きも、それを投げたときに地面へと 落下する軌跡も、物理の必然であり、主観要素のない統一された体系である。

 しかしながら、この無機的世界には、一つの重要な点がある。それは物質のもつエネルギーは必ず減衰するという事実である。物理学者によるこの言葉を言い 換えると、利用可能なエネルギーは減少し続けるという事である。動いている物質には運動エネルギーがあり、すべての物質にはそれぞれ、その場所から動き出 したときに生まれる位置エネルギーがある。これが例えば、海面が高くなって地球全体が海になったとすると、河の流れを利用してエネルギーを得るという、現 在の我々の方法は利用できなくなる。熱に関しても同じ事で、熱というのは熱いものと冷たいものとの間で、熱の流れが生まれた時に初めて利用できるものなの である。このようなエネルギー転換についての研究が進み、エネルギー反応の際には必ず何かしらのエネルギーが熱として無駄に消費される事もわかっている。 だから今だ我々の知らない何らかの反応が無い限り、この物理化学反応が進んで行く結果、宇宙はやがて最終的に、死んだ、非活性の一様に冷たい状態、静かな 海のように利用できないエネルギーが溜まり固まった状態になるだろう。このような死の状態に至るには、無限ともいえる年月が必要で、実際に減衰していくエ ネルギーの様子を知る事は我々には不可能である。これから数年、数世紀という期間では、こうした現象についての理論が完全に解明される事は不可能だろうと 思う。宇宙の始まりそのものも謎に包まれていて、宇宙の創造も、エネルギーの可逆性と同じぐらいに、何ら根拠は得られていない。もし、宇宙全体のエネル ギーが完全に平衡な所へ落ち着いてしまう前に、いまだ知らぬ現象が起こる可能性があるとしても、また、不可知論の立場で現在の物理学を疑うにしても、現 在、無機物質の世界を観測する限りにおいては、自然現象は非活性方向へと進行しており、利用可能なエネルギーは減少する方向なのである。こうした反応が ずっと続いていくと、生命やその他すべての運動や反応が、いつか止まってしまうことになる。宇宙は完全な死の静寂へと向かっているのである。

 さてここからは、無機領域に続いて、第2の生物の有機的な領域へと話を進めよう。私はこれから、その発生と歴史を考察しようと思う。物理の体系が説明す る限り、生命と言っても一般的な物質の高度に複雑な形態でしかない。生命が非生命の物質から発生したと考えて問題ないように思う。

 先に述べた無機領域の反応は、エネルギーが減少する方向のものだったが、ここではより複雑な形態を作り出す、また違った方向への反応が見られる。現在の 一般的な宇宙像が正しいとすると、今、我々の周りにある物質がまったく存在しない時代、原子は存在せず、自由電子だけが存在した時代に宇宙は始まった。こ のような初期の状態から、最初は原子、つまり色々な電子状態を持つ物質へと進化した。これらの原子はやがて、互いに結合して分子を作り出した。ここで一気 に長い年月を飛び越えてしまうが、やがて地球の熱が放射されてゆき、表面温度が100度以下に下がると、水蒸気は水へと変化し、物質が水に溶解されるよう になった。溶解する物質は、溶解したことで、固体のままでは出来なかった反応が可能となり、我々が生化学と呼ぶ新しい反応性を持つようになった。そして水 の中で初めて、炭素化合物のコロイドが生成し、このような物質から生命が誕生してきたと考えられている。

 生物というものは、何千という原子からなる分子から構成されている。それぞれの原子を見ると、それは電子が核の周りを回転する構造になっている。これま でに有機物が非常に複雑な状態へと変化してきたのはご存知の通りだが、このような進化は、今後も永続していくものなのかどうかは、未知のままである。

 生物学にとって、進化という概念は、物理化学においてのエネルギー保存則と同じで、議論を始める上での前提条件として欠かせないものだ。しかしながら、 進化という考え方を裏付けるために必要ないくつかの理論、自然選択、ラマルキズム、orthogenesisなどの理論が、大きく取り上げられているのに 対し、生物学そのものは、そのプロセスの形式以外は、取り上げられ方が弱いように感じる。しかし今日、生物学において、進化は重要な概念となった。その進 むべき方向も明らかだ。古典的な生物学からの直接的な裏づけもあるし、間接的な裏づけもある。こうした裏づけを総合して、確固たる理論の方向性を作り出し つつある。

 地球上に生命が生まれてから、数十億年という月日が過ぎようとしている。その間に、生命は多様性を広げてきた。無機的な世界で分子が存在しつつも、電子 や原子が存在しているように、今日でも原始的な生物も高等動物と同じように存在している。多様性の進行は、すべての種に一様に起こってきたのではないの で、特性が顕著なものを見たほうが判りやすい。その一つとして、個体の大きさを例に取ると、こうした傾向が現れており、微小な病原菌から、クジラ、ゾウと いった大きな動物まで、それぞれの時代時代での固体の大きさの限界が、徐々に大型化した様子がわかる。

 今ここで、議論を物質的な面に限定すると、生体進化の方向性の変化をこのように要約することが出来る。生物が環境をコントロールする力が増大し、生物の 環境からの独立性が増加してきたということである。この2つは同じプロセスの異なる側面である。このような変化がどのように行われてきたが、もっと詳細に 見てみると、個体の大きさ以外にも、限界値が増加した例を思いつく。複雑さ、寿命、生体機能の効率、部分と全体の調和、感覚器の発達、そしてまた、これら の項目がそれぞれ限界値に達した上で、脳のサイズが発達し、その結果、反応、行動の様式が複雑化を続けている。

 心理学的な面から、物理過程の影響の増大について考えよう。この事は心理のすべての面について言えることであり、知識から感情へ、感情から意識へと広げ て考える事が出来る。例えば、アメーバやミミズなどの動物は、視覚を持たなかった訳だが、感覚器が発達する事で、それまで判らなかった、外界の現象を感知 できるようになる。そしてまた、記憶、さらには総合的記憶が発達する事で、外界の現象の履歴を理解できるようになる。高等な生物では、意思行動を長時間に 渡って継続する事が出来、またその力も強く、高い目標点に向かって行動することが出来る。感情の深化においても、細分化が見られる。一つ一つは単純なもの の組み合わせで、総合的な感情、例えば、敬意、感動といったものを持つことが可能となった。McDougallは、これを『感情 (sentiments)』と定義した。

 生物学的見地から言って、すなわち、心理作用の進化の方向性は、環境のコントロールと環境からの独立に向かっているという事になるのだ。大脳の発達か ら、より正確により広範なコントロールが可能となり、従来の生体機能以上に、機能と環境が調和して働くようになった。

 ここまでの生命進化の方向性を要約すると、量、質の両面について、『生命の増大(more life)』という言葉で表される。地上と空は生物によって支配されるようになったと言って良いのではないだろうか。非生体物質はどんどん生物に取り込ま れてゆくし、生物は、非生体物質の環境にあって、自身の力だけで生きていけるようになってきた。

 こういった意味では、生命進化は、無機的物質への抵抗、と言えるかもしれない。しかしながら、生命は無機的物質から生まれてきたわけであり、それだけで なく、生命が生まれる以前から、こうした生命進化の方向性は、一つの流れとして存在したと捉える事が出来るだろう。

 最後に我々は、宇宙の3つ目の側面、心理的な側面について、議論しよう。これについてすでに、これまでの論旨の中で、生物学との関連から触れてきてい る。色々な面で考察し、心理の発展は、生命の発展に続く一連の流れであること、今後の生命進化全般を補っていくものである事を見てきた。

 ここで、少し難しい話が見えてくる。それは無機質から生命が生まれた時と同じ観点の議論である。ある特異点を越えると、無機質から発生した有機物質は、 自己複製する能力や、組織化する志向性をもって支配的な立場に立っていった。それまでは、炭素を含むコロイドが最も環境変化に強い物質であったのが、この 点以後はそれが、生体組織にとって変わられる。

 まったく同じように、(哺乳類の化石からわかる事であるが)進化の最終段階において、純粋に肉体的な組織の複雑度はすでにあるレベルに行き当たってお り、その後、生存競争に勝ち残れるかどうかは、結果として、脳の発達に見られるような、心理面の能力によって決まる事になった。そして最後には、心理の発 達が肉体の発達を追い越す形となり、肉体の発達を阻害するまでになっている。生物学の言う進化に引き続く新たな段階において、生命組織は心理が支配的に作 用している。生命組織はその最終的な形態において、心理組織を持つ、自意識ある個体としての、人格というものを生み出した。

 人間が生まれたとき、生命はこのような特異点を越えたのである。多くの人々はこれを、地質学の新しい地層になぞらえて、心理層と呼び、新しい時代の始ま りについて、認識を共にしている。この層は地質学的に言うと、生まれて間もない表層である。すでに見た珊瑚虫、クラゲなどが高等な生物の限界まで進化を遂 げたような進化の可能性を、今後の未来においても予想できるかと言うと、今は答える事が出来ない。人間というこの種も、まだ幼年期と呼べるほどの時代しか 経過していない。この心理層の中で、新たな生物種が生まれてこようとしているのかも知れない。

 この新たな層の特徴はどこにあるだろうか。まず第一に、心理は自己意識的だと言える。これにより心理組織の進化の方法は意識的なものとなり、従来のよう に自然選択によって無作為に未来が決められるのではなくて、自身の進化を自身で決める事が出来るようになった。

 これまで研究されてきた多くの方面で、新たな理論が導入される事になる。進化の方向への変化の割合が加速的に大きくなり、進化の可能性も、無駄の少な い、効率的なものへと変化する。例えば、時計メーカーの不良品がとても少ないというような場合、その理由は何だろう。それは時計を計画的に生産しているか らであろう。また、時計の機能向上についても、これを計画的に行うのであるから、最悪の場合、予定通りに進まなかったとしても、紙と時間が無駄になる程度 で、膨大な時間や材料の金属の無駄は回避される。アイデアが具現化した上で取捨選択される必要はない。自然界での個体や種の自然選択のような効率の悪い方 法ではなく、思想の自然選択によって、進化的な変化がますます増大してゆくのだ。

 最終的に、このような変化から価値というものがに顕在化してきている。生存のみを追及するキツネなどの野生動物は、食糧、睡眠、休息、狩り、性欲、群生 などに価値を感じている事は間違いない。でもそこから、何の結論を導く事もできず、何を目的としているのかも判らず、結果としてそれを嗜好していることが 判るだけだ。厳密に言って、ここには価値は存在しない。人間以前の生命の事をさかのぼって考えるとき、人類の発生を境として、まったく新しい価値概念が生 まれてきた事が明らかに判る。

 まとめると、心理の影響が大きくなった結果、心理的な行為はそれ自身を目的とするようになり、それ自身に価値を見出すようになったと言える。人生におい ては、食べる事、寝る事、運動する事、性欲など、これらの欲求だけに価値を見出すのではない。知識について言えば、知識を実際に適用する事が出来なかった としても、知るという事だけにも価値が見出される。しかしこれは人間のみに新しく生まれた現象である。アテネのふくろうですら、天体の動きの研究のため に、何年もの間、没頭したりはしないだろう。霊長類の高等な部類の動物でも、人間が価値を見出しているような芸術作品を作り出すことが出来るとは到底思え ない。自然の美しさについても同様の事が言えるだろう。繰り返しになるが、牛が人間のように、夕日を見て感動するということは無いのだ。行動についても同 じような関連があり、自由意志、選択と我々が呼ぶような、ある状況で多くの中から一つの反応を選び出す場合を考えると、人間の行動は確かに、他の動物より も高等だと言えて、そしてまた、道徳と言った尺度も、そこから生まれてくるのである。
(Haldane, '21; Thouless, '23を参考にされたし。)

 厳密に言うと、価値を作り出すとか、新たな価値を見出すというだけではない。さらに心理が発達し、共同体が完成していくにつれ、新たに見出した価値を理 解するという行為が生まれてくる。私が言おうとしているのは、『究極の価値(absolute value)』というものである。究極の価値というものは、それ自身が完全であるだけでなく、2つの要素への関連を持つ。それは、外的な現実性への関連 と、我々の心理や共同体への関連である。(※下記注)これはつまり、抽象化のことを指していて、我々は、心で感じた価値を一般化し、それと同時に、その価 値を最もはっきりしたものにする。このように考えると、面白い事に気付く。我々自身によって確信されている事物は別とすると、自然そのものが我々の権利を 保証してくれている。言い方を替えると、自然が我々の認識を保証し、試金石として作用している。しかし、方向性の同じ2つの事象について言うと、進歩の進み 方に差があると、進歩の遅いものが、早いもののペースを押えてしまう現象が起こる。Fleet Streetを東に向かって歩いている間には、都会での生活が停止してしまうし、線路の上を牛が歩いているとすると、列車と同じ方向に進んでいたとしても 邪魔になる。ここから言えることは、生命の進化において、かつては進歩的であったものが、今は心理の進化を妨げることになるということだ。相対的には後退 してゆくものであり、今日の我々の考えからすると、好ましくないものになる。単純でかつ、基本的な例を挙げて説明しよう。人類が発生する以前の自然界にお いては、自然選択による淘汰が進化の方法であった。ライオンの威厳や力強さ、シカの優美さと機敏者、鳥達の艶やかさ、身軽さは、どれも自然との絶え間の無 い格闘や勇気によって作り出されてきた。しかしながら、同じ進化の結果をもっと急激に、平和に達成する事が出来るならば、古い方法はもはや用のないもの だ。ハクスリーの『Romanes Lecture』で提示された問題、かつてゆっくりとした変化の中で人間を作り出したこの宇宙、かつては互いに一体であったものが今日は互いに死闘を続け る関係となり、互いに完全に分断されたこの宇宙に対して、人間はどう対峙すべきか、この問いに対する答えが、ここに隠されている。

(※ここでの議論は混乱を招きやすい。2足す2が4になる事は、自明の事実であろう。特殊なケースでは、偽であることが真となる場合がある。ある美しいも のに対して、究極の美を見出したとしても、美学的には十分とは言えない場合がある。嘘をつく事が許されない社会というものを想像することは出来るが、基本 的な美学で正しいと思われる知識に関しても、数学での真の事象に比べると、不完全なものなのである。)

 我々自身が問題を議論する方法から、それが難解で困ったものというよりは、重要で知的なものであることが判ってくる。そしてここから、善悪の様々な問題 が見えてくるわけだが、それらはわき道へとそれてしまうので、本論へと戻ろう。『ヒツジの話に戻ろう』

 未だ知らぬ中立的な立場で我々に敵対するこの力、それは全体の歴史の中では我々が進もうとする方向と同じ方向へと進んでいる。それはまた、我々が強く熱 望しているものではあるが、それは無目的に作用するものである。生物の世界に発生した心理と言うものが支配的に作用する事で、進化は加速し、進化全体のス ピードを方法が変化してゆき、その結果、副次的な方向性の変化が生じた。そこには3つの傾向があり、この3つは統一的で互いに強い関連を持っていて、今日 の科学において、我々が知っているものだ。この意味において、『すべての物理は統一的に働く』と言う事ができるだろう。

 ここから派生する重要な問題について、一言触れておこう。それは、人間の罪悪の問題や、生体進化の停滞や退化についての問題である。退化というものは一 般的に見られる事だが、これは進化全体の傾向とは逆行するものである。でもこれを肯定的に捉えると、進化の可能性が広がった結果生まれたもので、停滞や退 化も、進化全体の流れを助長するものだと考える事も出来る。

 我々は、真実についての外的制約から、全体の流れを受け入れない訳にはいかない。進化が全体としてはどのように機能しているか、すべてを知り尽くした訳 ではない事も白状せざるを得ない。しかし、心理の発生をもたらした進化の方法変化は、浪費、罪悪、退化といったものを、今後の進化の中で徐々に、我々から 取り除いてくれるのではないか、という希望を抱かせてくれる。

 このように考えるならば、我々は未来を楽観的に考える事もできるだろう。例外もあり、楽観的な理論は修正を受けるかもしれないが、進歩の方向性ははっき りと現れているのだ。

 後で再度述べる事になるが、この宇宙に働く力の総和を、神の具現化として捉える事が出来るだろう。ここでの神とは、唯一絶対のものであり、こうした具現 化以外の方法では感知しえないものである。あるいは、神という言葉が、宇宙の物理を理解した人間の思想だと捉え、神という言葉を人類学的な意味に限定し て、人類の宗教の対象だとして理解する事もできる。こうすることで、宇宙の力の総和や、その背後にある唯一絶対の神だけでなく、人類の心理の組織化された 力を含んで、意味に持たせる事ができる。

 ここまでの説明で、神という言葉の第2の意味として、人間の理性が理解し、感知する宇宙の力の総和に対応付ける、という私の意見を述べてきた。こうした 立場に立つと、神は唯一のものになるわけだが、その唯一の存在がいくつかの側面を持つことになる。まず第一の側面は、我々に対しては中立的で、ある意味で は我々と敵対する立場であり、この虚ろな宇宙空間の力を司るだけのものであり、秩序だった理解が可能で、長期的な視点で見ると、我々が克服しなければなら ないものである。この観点での神は、Wells氏が、『隠された存在(Veiled Being)』と呼んだものであり、我々が意図する意味において、根源的な言葉である。第二の側面は、地球上のすべての生命を含んで、我々の生態系全体を 司るものとしての意味である。我々の生活する空間は、全体に対しては微小であるが、我々自身にとっては大きなものである。ここでの神という概念は、我々に とっては安全で確かな考え方で、矛盾に陥ることなく、人間も全体の一部であると理解する事ができ、我々が歴史に見るように、一つの方向へと進んで行くもの である。そこには、Matthew Arnold氏が『我々のためではなく、正義のための力』と呼んだものが存在している。この第二の側面は、第一のものとは関連を持ちながら、それが向かう 方向には違いがある。なぜならば、物理的にそして一時的に、第二のものを生み出したのは第一のものであり、生物が進んでいこうとする方向は、それが第一の ものから生まれたものでありながら、非生物的な力に対向して、一つ一つ、発展を積み重ねていくものであるからだ。

 次なる議論は、今、我々にとって最も重要なもので、我々個人やその集団が、人類全体とどう関わっているか、という論点である。ここで我々は、神という概 念の3つ目の側面を議論するのだが、これこそが、人間を動かす支配的な力を司っているものだ。この支配的な力とはつまり、我々の本能であり、欲望であり、 価値観で あり、理想である。これらそれぞれが、互いに影響し合い、合理的で経験的な外界と影響し合って、全体の力を作り出し、その力が、過去から、そして未来へと 我 々を導いていくのである。この力も、人類の発達とともに変化してきた。まだ人類が未発達だった頃は、一つ一つの力は組織化されておらず、人間の本能と理想 には、たいした違いがなかった。このような一つ一つの力の互いの関わりが、経験を通して徐々に発展してきたのである。この第三の側面は、物理的には小さな 場所に限られているのだが、それはまた逆に、非常に大きな広がりを持っている。なぜならば、人間の理想は無限のものであり、際限がない。現在の我々の持つ 心理の形態においては、この中で究極の価値を見出している。この3つ目の神の概念は、歴史的には、第2のものから発生しており、つまり、第2のものを通し て、第1のものの中から生まれてきたのである。

 物質と生命と精神、この3つが我々の世界の最もシンプルな分類であろう。幾何学的に力の和の概念を考えると、それぞれはばらばらな向きの、物理現象の力 の総和、生命現象の力の総和、精神現象の力の総和を考える事が出来る。生物の力とは、物質と精神の2つの力の和と考えてよいのかも知れない。生命は非生命 の物質そのものではないし、かといって、精神だけで成り立つ訳でもない。生命の向かう方向は、精神の向かう方向に近しいが、非生命の物質が向かう方向とは 大きく異なるのだ。


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