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ジュリアン・ハクスリー『宗教と科学:新しいボトルに入った年代モノのワイン』
■ジュリアン・ハクスリー『宗教と科学:新しいボトルに入った年代モノのワイン』
『Religion And Science: Old Wine In New Bottles』 (Julian Huxley)
第一章
「科学が次に為すべき重要な仕事は、人類のために宗教を創る事である」モレリー卿は、自身のエッセイの中にこう書いている。彼のように、思想と言動が一
致している人物、教理ではなく合理性を道徳の規範とし、感情ではなく結果を判断の基準としている人物が、このような発言をしている事は、新鮮な驚き与える
であろう。
ところで私も、彼に負けずに発言しようと思う。科学と宗教との関連について書こうと思う者は誰しもが直面する問題に、我々は取り組んでいるのである。科
学を信奉する者は、科学的でないと感じるものに対しても、科学の手法を押し付けるきらいがある。また、宗教心に篤い人は、冷静で人間味のない合理主義の態
度に、違う何かを求めようとする。このような問いかけに対し、このエッセイでは、私なりの答えを述べてみようと思う。ところでその前に、もう少し判り易い
問いかけから始めてみようと思う。今日、多くの人々が同じように感じている疑問である。本心では、人生にはなんらかの宗教が必要だと感じながらも、合理主
義や科学の業績を否定してまで、知性のある人々に反論する事も出来ず、その疑問から目をそむけるしかない。端的に言えば、その疑問とはこのようなものであ
る。「科学において、神とは何か?」
未開人にとって、霊魂がすべてである。単なる物質も、見えざる力の影響下にあり、世俗の現象はすべて、魂の作用のあらわれである。自然の摂理はすべて、
魂の力でもたらされると考えるのだ。未開人の考え方は統一されたものではない。「未開人が自然を統一して理解する事は出来ない。それは、
Walpurgis-nacht的過程であり、光と影が交錯し、いたずらや茶目っ気の連続で、友愛もあれば敵意もあるような力として理解されている。」
(W.James, '09, P.21)
このような未開人の魂の在り方は、文明の発展、そして合理的な観察の中で見つかった物理現象の体系に侵略されていく事になる。例えば、水が湧き出した
り、川が流れるという現象の理解できない不可思議が、擬人化されて、妖精や神の概念に至ったわけであるが、こうした考え方が失われていき、現実の日々の生
活からずっと遠い所へと押しやられてしまう事になる。やがてそれらは半信半疑の神話となり、ついにはおとぎ話となり、小説の中の象徴などになって、その説
得力を失っていく。その一方で、川の流れは自然の力として理解され、利用できるようになる。風、雨、植物の成長、嵐なども同様である。今日では、雷、稲
妻、地震、噴火、彗星、日食、疫病なども、その神格を失っている。
このような、まとまりのなかった不可思議な力の中に秩序を見出して、力学の体系として理解し、人間の力でコントロールできるようにしてゆくという、発展
のプロセスが進行していくのと同時に、人類の真理が勝ち得た精神の力による凝縮と昇華の結合とも言うべき現象も現れている。1つ1つの精神が、精神の集合
体へと、そしてそこから神の集合体へ、そして唯一の神へと発展してゆくのだ。しかし現在は、この凝縮は一つの限界点に達している。この唯一の神が、空虚で
現実味のない存在へと崩れ去っていく以外には、昇華が進む事はないであろう。
古代の人々が考えた神のことについて、我々は、不完全で未熟な精神が生み出したものだと考えて、役に立たぬものだと決め付け、省みる事もしない。ところ
で今日の我々は本当に、古代人が考えたもの以上の神の概念を持っているのだろうか。
果たして、様々に存在するすべての神に同じ事が言えるのだろうか。神だけが我々の無知の残留物が擬人化されたシンボルであろうか。Salmon
Reinachのように、なんらか神の概念を持つことが文明の未発達と同義だと言えるだろうか。そしてまた、宗教を信じる事で、人間の能力は発揮されず、
阻害されると見るべきだろうか。
どの問いに対しても私の答えはNOである。そして私はあなた方に対して、こう公言したい。神という概念を根底から見直すという前提に立つならば、神とい
う概念は科学的にも重要な意味を持つ。そして、生物学における進化論がそうであったように、宗教が今日の停滞を打ち破り、古い形式を脱ぎ落とした時に、
まったく新しい発展への道筋が現れるのだ。
科学に携わる人間は、なんらかの問題に取り組もうとする時、科学的な態度を持って臨むものだ。このような人物は、宗教など実在しないとはでは言わなくて
も、複雑な恐怖心だとか、昇華された性本能だとか、偽善とそれに騙される人々の集合だ、などと言って、宗教についての議論をやり込めようとする。でも実際
にはそうではない。そしてまた、神聖な領域を侵してはならないとか、科学以上に実在性が高いのだといった主張に、黙って従うわけにも行かない。いや、宗教
が歴史上で重要な事柄であることを認識すべきなのだ。その上で、宗教の歴史について、未来への発展について、科学の手法が適用できるかどうかを、言葉を変
えるなら、知性の力で光明を投ずる事が出来るかを考察すべきなのだ。
考察には様々な方法がある。例えば観察と比較を例に取ると、宗教とその歴史を、なんらかの関連が見出されるまで、事実を採集し、分類していくことにな
る。また、いわゆる心理学的な側面からのアプローチもある。宗教が国家に与える影響や、その環境の中でどのように変化して来たかが見えるだろう。そしてま
た、宗教の要素を分析していくならば、宗教が我々の目にどう映っているかだけでなく、その本質が何であるかが見えてくるに違いない。
さらには、科学者は、こうした考察において、もっと一般的な原理を適用することができるはずだ。それは正負の両面を持つ原理である。科学者は、ある種の
実存については、確証を立てぬまま議論を進める必要があり、それは科学者自身が、実存する物理との関わりを認知する事が出来ないことによるのである。言葉
を変えると、正しい理論を構築して行くためには、不完全な状態を我慢しながら、ゆっくりと議論を進めなければならないという事である。これが我々が、建設
的な不可知論と呼ぶところのものである。
まさにこの事がこれまで、科学が宗教を取り扱おうとする際の、非常な妨げとなっていた。世界像を完全に把握したい、理解したいと思うのは、人間の性質で
あり、多くの主義、教義の根底を為している。しかしながら、ニュートンやケプラー以前には、天体現象についての科学的な説明がなく、ダーウィン以前には、
自然史というものが無かったように、今日の心理学の発展以前には、心理の働きというものを理解するすべが無かった。19世紀後半において科学は、例えば進
化論的な地質学と生物学という形で、無機的な事柄を包括的に説明付けた。しかし、人間心理そのものについては、検証する事が出来ないままであった。言って
みればこれまで、科学者は唯物論者だったのだ。しかし、一般の人々にしてみると、オーソドックスな科学による、心理とは物理現象上は空虚な事柄だという説
明を、にわかには信じがたいであろう。そして、発展途上にある今日の科学の説明以外の、心理についての十分な説明を与えてくれる理論を求めているだろう。
Hinc illae lacrimae.
今日ようやく、物理、化学、地質学、進化論的生物学に加え、人類学、心理学を含めて、不完全ではあるが包括的な学術体系を作ることが可能になってきた。
17世紀が、我々が科学と呼ぶところのものを組み上げて行くために荒地をならした時代とすると、18世紀は土台を築いた時代、19世紀は柱や壁を普請した
時代、そしてようやく20世紀になってようやく、実際に生活できるような家屋が形になってきた。
それでもなお、科学が十分な検討を行っていない分野が残っている。例えば、テレパシーなど、大雑把には心理現象と呼ばれるような分野が、今日の科学の体
系から外れているものの一つである。これは、天文学以前の占星術、18世紀以前の電磁気学、19世紀ごろの催眠術などに似ている。このような事柄にについ
ても、一般の人々は、科学の理論によって理解したいと望んでいる。しかしながら科学は、まだそれを出来ずにいる。今の我々の建物では不十分で、新たな住人
達のために、さらにもっと上の階を作り上げていかなければならないのである。
科学はこうした取り組みを続ける必要があり、堅固な理論の上に、新たな理論を築き上げる必要があるのだ。しかもそれは、従来の理論を包括して、矛盾の無
いものでなければならない。
我々が築くべき、新たな理論とは、どのようなものだろうか。今日我々は、物理学者達の最新の研究結果から、この宇宙全体が、いわゆる元素という多様な物
質と、それら相互の根源的な統一性の上に成り立っていると考えている。これらの物理現象は、どんな場所であろうと、原因から結果という、同じ順序に従って
振舞う事も知っている。そしてまた我々は、間接的ではあるが、まずまずの研究結果をもって、物質の形態が進化してきた事を知っている。我々の太陽系を例に
取ると、最初はすべて、電子のような物質であったが、そこから、原子、分子が生まれ、やがてそこから、コロイド状の有機的な物質が生まれ、その中からやが
て、生物が発生してきた。生物の形態も、最初は単純であったものが、徐々に複雑な形態に進化してきた。心理についても、下等な動物においては無視できるほ
どだったものが、徐々にその重要性を増し、今日、我々人類のような形を成すに至っている。(Danysz, '21)
ここから引き出される3つの重要な原理は、統一性、均一性、そして発達である。我々の知る限り、性質が変化するという例は見られないが、多くの場合、新
たな状態へと進化している。例えば、水という合成された分子の特性の全体は、構成要素である酸素、水素について判っている特性からは、演繹する事が出来な
い。同様に、人間の心理の特性というものは、動物の心理に関する知識から演繹できるものではない。やがてまた、新たな組み合わせから、新たな特性が生まれ
てくる。このような進化の事を、Bergsonは、「創造的(Creative)」という言葉で表現したが、私は、Lloyd
Morgan氏のように、「発生的(Emergent)」と呼ぶほうが良いのではないかと思う。
人間の心理について振り返ると、最初は生理的な反射と区別がつかないような精神反応であったものが、徐々に今日の、顕在的で複雑な、我々の感情や知性と
いった状態への成長を見る事が出来る。すべての物質が進化的に発展した事が、有機物の基本的な特性へ還元されるように、単に仮説としてでなく有意義な結論
として、心理特性というものが、生物の基本的な特性へ還元されると考えて、良いのではないかと思う。このような、生体においての「心理特性」という言葉
に、どのような重要性を与えるべきか、これがなかなか難しい。しかしながら我々は、人間の持つ心理の一部と何かしら似たものを、すべての生命が共通に持っ
ていると考えていて、人間の脳という物質と心理との関係に類似したつながりが、生物一般についても成り立っていると考えている。
そしてまた、これまでの歴史において、有機物質は無機物質から生まれてきたという事も、疑う余地の無いことである。だとするならば、我々はこの結論をさ
らに推し進め、生物だけでなく物質一般についても、高等動物の持つ心理についての一般原理を適用しよいと考える事も出来るのだ。こうなると我々の結論は一
つに集約され、物質一般を一つにまとめて考える事が出来る。物質が、物理特性と同時に、心理特性を持つと考えるのが、最も単純なアプローチである。このよ
うな新たな概念を示す言葉を、我々は持っていない。「物質(matter)」という言葉は物理学者、化学者が、自分達の使いやすい意味に変えてしまってい
るので使えない。物理学者たちが、心理現象を測定する術を知らない今の段階では、「物質(matter)」とは、「心理的でないもの」という意味であり、
「物理特性を持つもの」という意味なのだ。
William of Occam の警句、「Entia non multiplicanda praeter
necessitatem」を思い出して頂きたい。ここまでに述べたような一元的な立場にたつと、これまで我々の世界観を覆い隠していたモジャモジャの毛
皮が、ばっさりと刈り落とされてしまう。
明らかな反証が提示されない限り、我々はこれらの原理を主張し、大異変だとか奇跡だとかいう理論には耳を貸さないことにしよう。奇跡などと言ってしまう
と、それが幻想でなければ、それは単に特別な出来事として、何ら説明する根拠を失ってしまう。事物を明らかにしてゆくためには、地道に知識と考察を重ねて
いくしかないのである。
章の最期にこれだけは言っておこう。ここで私はすべてに答えられるなどと言うつもりはない。我々が知っているのは現象だけで、我々の理論は、その
現象を解釈するに過ぎないのだ。
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