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■Bruce Bastin『ブラインド・ゲイリー・デイヴィス伝』
(Bruce Bastin, The Life and Career of Blind Gary Davis)
訳文
「心に宗教心を持たなければだめだ」と、ゲイリー・デイビスは語る。彼は神の啓示を受け、そして音楽の中にも宗教が重要だと考えていた。才能あるフォークミュージシャンが皆そうであるように、デイビスも演奏の中で装飾音を加える事で、演奏能力の高さを誇示しようとしていた。このことは彼自身も語っているが、プロとしてのプライドによるものでもあった。彼は深い宗教心を持ちつつ、複雑な人生を歩んだ、類まれなミュージシャンであった。
ゲイリー・デイビスは、1896年4月30日サウスカロライナの田舎の農場に生まれ、祖母に育てられた。8人生まれた兄弟のうち、無事に生き延びたのは2人だけという環境の中で、8歳の頃にはギターを習い覚え、バプティスト教会で歌を歌うようになった。その2年後には父親を殺害され、それからは一人きりで生計を立てることになった。40代で結婚するまで、デイビスは一人で暮らしていた。
15歳になる頃には、グリーンヴィル・ストリング・バンドのメンバーとして演奏するようになった。このバンドには、デイビスが後年、「名人だった」と語る、ウィリー・ウォーカーも在籍していた。数年するうちには、デイビスはサウスカロライナのスパータンブルグにある盲学校にて、短い期間ではあるが音楽を教えている。25年後、デイビスは生活観察員に、「私は楽譜の読み方を習った事は無いが、本のようなものだということは知っている。」と語った。(このやり取り以外も含めて、ブルース・バスタン Red River Blues (1986、イリノイ大学)に詳しく紹介されている。)彼は、盲学校で学んだ、点字のことをイメージしていたようだ。
その後デイビスはカロライナを転々としていた。1919年初頭には、ノースカロライナ・ダーハムの生活保護局が彼を確認していたようだが、1931年に母親が移住してくるまで、定まった住所は無かったようだ。N.C.ウィルソンの生活保護局の局長から、ドーハム支部のW.E.スタンリー氏に電報が入り、「深夜の列車にてゲイリー・デイビスに会うように」との連絡が入った。スタンリー氏はすぐ、ドーハムの警察署長に有色者地区で7月17日金曜日にデイビスがギターを弾くことを許可してほしいと申し出た。ブラウニング・マギーも、数年後、このような警察への依頼があったことを述べている。
1935年にダーハムのウエストクラブ通りにある、ユナイティッド・ダラー・ストアに新しいマネージャがやってきた。このJ.B.Longは、キンストンで働きながら、常々、黒人白人を問わず、フォークミュージシャンを録音したいと考えていた。ある日、タバコ屋に客を取られないようにと考えていたところに、フルトン・アーレンという盲目のブルースマンを知った。Longは、夏休みを取ると、今では信じられないような6人を引き連れて、ニューヨークへと録音に向かった。その6人とは、Long,その妻と娘、ボーイフラー(フルトン・アーレン)、ゲイリー・デイビス、ジョージ・ワシントンである。ワシントンはこの中で唯一視力があり、フラーのガイドをするとともに、ギターも演奏した。セッションはARCで行われ、Longにとって幸運なことに、A&Rのマネージャがエドワード・アーサー・ササーリーであったことだ。ササーリーは、イングランドから、ウィスコンシン・チェア・カンパニーを経てニューヨークに来ていて、1920年代のパラマウントでカントリー・ブルースの恐らく最高の録音を手がけていた。それで、何かとスタジオ内のトラブルが起こりがちなブルースアーチストの録音でも、彼にとっては慣れっこだったのである。ワシントンは、Bull City Redの名で演奏し、(ダーハムはBull Cityと呼ばれていた)盲目の男達の後ろから腕に触れてやり、録音の終わりを教える役割をした。デイビスは2分30秒の中で演奏を終える事に苦しんでいたが、フラーの方は、演奏をレコードで学んだということもあって、難なくこなしていた。
最初のセッションは、1935年7月23日火曜日に行われ、デイビスの力強いブルース2曲から始まった。そしてその週の木曜日にはブルースの演奏から足を洗ってしまう事になる。その夏の彼の録音は宗教的なものばかりであったが、「Cross and Evil Woman Blues」と、他のミュージシャンもタバコ屋の周りで耳にしたという曲「I'm Throwing Up My Hand」の2曲の例外があった。Longはデイビスの歌が気に入らず、水曜日の録音では、「I Saw The Light」でBull City Redにボーカルを取らせたが、その時のデイビスのギター伴奏は素晴らしいものだった。翌日になると、彼は宗教的な曲をやりたいと言い出し、フラーの2曲のブルースでのギターを断った。幸いにも1935年のこの録音はすべて、1枚のアルバムにて、今日、聴く事ができる。
ダーハムでのデイビスは、私生活での問題に悩まされていた。生活保護局の補佐を受けていたが、ギターを演奏する事による収入について、いざこざが絶えなかった。局員の一人は、「ギターを演奏して、多少の収入を得ているようだ」と記録しているが、この多少という言葉が誤解の元になっている。こういった問題は30年以上経った今日でも、サウスカロライナの保護局に同じように残っている。1939年にLongが計画したセッションでは、フラーは降ろされてしまうが、これも保護局のチェックが引き金となっている。Longは必死でデイビスに代理を頼んだが、デイビスは1945年にニューヨークに移るまで、録音を行う事はなかった。
自ら好んでそのようにしていた面もあるだろうが、ダーハムでのデイビスの生活は孤独であった。信心深い人々がそうであるように、デイビスも1937年の夏に心を決めて以来、自身の信仰を深めるだけでなく、他者への布教にも熱心であった。こうした決心は以後変わる事が無く、1957年のレコーディングでも同様であった。ダーハムで彼の家政婦は、デイビスが点字の聖書を熱心に読むあまり、服に火がついたことに気付かず、大やけどになる所を彼女が助けたと語った。ある社会福祉員は、「説教を聞かされた」と言い、また別の福祉員は、「大きなナイフでの演奏に冷や冷やさせられた」、別の者は、「どこか別の所でギターを弾いてほしと思ったが」「ギターを弾いてくれるように頼んだ」「あんな凄い演奏は見た事がない」と語っている。
デイビスは地元の他のミュージシャンとの交流は少なかったが、彼のスキルは周りから尊敬されていた。ダーハムに住むブルースマン、ウィリー・トーレスによると、アート・ササーリーがデイビスについて、「私の知る限り、最も優れたギタリストだ」と語り尊敬していることを認めていた。デイビスと競演した事があるかと聞かれ、ギターを貸してもらった事はあるが、競演はないと残念そうに語った。フラーに対して、デイビスは彼をミュージシャンと認める事は無く、「もっと教えてやればマシになるだろうが」と言っていた。
1944年にデイビスは、ニューヨークのブロンクスに移り、北部の都市部でユニークなギター伝道師として演奏するようになった。10年ほどするとようやくレコーディングの機会に恵まれ、まずスチンソン・レーベルでのモーゼス・アッシュによる録音、そしてリバーサイドでの録音、その後、プレステージ・ブルースヴィルと、ステファン・グロスマンの元から、多くのアルバムが発売され、フォークシーンで注目のギタリストとなった。
デイビスは相反する面を持つギタリストだ。自身は非常に敬虔なキリスト教徒であり、また抜きん出たブルースギタリストでもある。後に彼は、ブルースを再録することがあったが、デイビスの意思としては、ブルースからは距離を置いていた。彼のギタープレイは卓越していて、他の追従を許さない。演奏を聴けば誰にでも判るように、偉大なフォークアーティストとして名を刻んでいる。
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