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■Jas Obrecht『ブラインド・ブレイクの生涯』
(Jas Obrecht, BLIND BLAKE)
訳文
最初のきっかけは、ブラインド・レモン・ジェファーソンの78sレコードのヒットだった。その後、パラマウント社のスカウトは、ブルースアーティストとの契約に飛び回るようになった。そして1926年の秋に、ブラインド・ブレイクの最初の録音が行われた。彼はスウィンギーで洗練されたギタリストで、その演奏は他の重苦しいカントリーブルースとは一線を画した、暖かでリラックスしたものだ。他のミュージシャン達が、鳴かず飛ばずで消えていく中、ブレイクのレコードは売れ、スウィングするジャズマン、ノリの良いヒップスターだと評判になった。この「ピアノのようにギターを弾く男」を超えるようなギタリストは、未だに現れていない。
「素晴らしく洗練された演奏だ」と語るのは、70年代に、ロックファン達にブレイクの演奏を紹介したヨーマ・コーコネン。「彼の演奏は常に洗練されていた。ピアノを両手で弾くような、そのピアノスタイルの完璧な演奏が好きなんだ。バンドアレンジの曲だってギター一本で表現する、その演奏が私を虜にしてしまった。ギター・デュオ、ピアノとギターのデュオへ、私が取り組むきっかけもブレイクだ。ブレイクから、他人の演奏と合わせることを学んだんだ。」
「ブラインド・ブレイクは偉大なプレイヤーなだけでなく、偉大な音楽家だ。」と語るのはライ・クーダー。「絶頂期の演奏の素晴らしさは言葉では言い表せない。演奏のタッチが素晴らしい。落ち着いた演奏で、弦のヒットが強すぎない。シンコペーションのセンスが良い。ブレイクはGeechieの国に降り立った優れた演奏家の一人だ。まったくもって偉大なギタリストだ。印象的なリックを残した。そしてまたブレイクは、様々な場所で様々な人との、たとえばジョニー・ドットなどのと競演を残している。私など足元にも及ばないよ。」
しかしながら、ブレイク自身について、多くは謎に包まれたままである。写真はたった一枚しか残っておらず、そこには、3ピースのスーツ、ボウタイに身を包み、小型のギターを抱えて仏像のように微笑む、背の高い男が写っている。1927年に出版された、「The Paramount Book Of Blues」では、以下のような簡単な伝記が記されている。
ブラインド・ブレイクの生涯は、「雨に歌えば」「つらい時の微笑み」という言い方がぴったりくるだろう。南国フロリダのジャクソンビルに生まれ、盲目と言う辛いハンデを持ちつつも、気候の温暖さを体に吸収して育ったブレイクは、物事の外観を見ることが出来ない代わりに、類まれな才能を身につけた。それは物事の内面を見る力であり、それにより彼は、世界の美しさを誰より知ることが出来たのだ。そしてそのような、彼だけが見ることのできる情景を音楽に表現したのだ。彼は、著名なピアニスト、ギタリストの演奏を熱心に研究し、次第に様々な感情を楽曲として表現するようになった。我がパラマウント社は、このブレイクと専属契約を結び、彼の才能を世界に向けて紹介する。彼の演奏を聴けば、まるで言葉を話すように感情を表現し、聴く人に喜び悲しみを呼び起こすギターの甘い響きに、誰もが納得すること請け合いである。
他にも、ブレイクのギターについて、次のような宣伝文句が残されている。「Bad Feeling Blues」のコピーでは、「ブラインド・ブレイク唯一無比のノリの良いギター」、「Ramblin' & Ramblin' Boa Constrictor Blues」では、「ブラインド・ブレイクの演奏を自信を持ってお勧めいたします。」、「Wabashi Rag」においては、「聴いて幸せになれるギター」。
生まれたときの名を「アーサー・フェルプス」だとする説もあるが、「Papa Charlie And Blind Blake Talk About It」の中で、チャーリー・ジャクソンに「本当は何て名前だ?」と尋ねられ、「アーサー・ブレイクだ」と答えている。「C.C. Pill Blues」、「Panther Squall Blues」の作曲者としては、「アーサー・ブラインド・ブレイク」としてクレジットされていて、アーサー・ブレイクを本名とする説を裏付ける形となっている。ブレイクは南部なまりで、ジョージア南部、ケンタッキーと東海岸を転々とした後、ブリストル、テネシーを経て、最後にシカゴに腰を落ち着けたようだ。
スティーブ・カルト、ウッディ・マンは、ヤズーからのブレイクのアルバムのライナーにて、「出身地がどこであるにせよ、非常に興味深い演奏スタイルだ」と述べている。彼の音楽を、ブルース、ギターインスト、歌謡曲などと、既存のジャンルに分類したがる人も多いが、彼の録音を単純にジャンル分けすることは難しい。彼が演奏家としてのスタイルを築き上げた過程は謎に包まれたままだ。多くの盲人ギタリストの演奏は、路上での小遣い稼ぎで身に着けたレベルの低いものであることが多いが、ブレイクのブルースは、緻密にアレンジされていて、楽団所属のミュージシャンを思わせる。このジャズバンドでのアンサンブルを連想させるスタイルこそが彼の演奏を強く印象付ける点である。
ブラインド・ブレイクの最初の録音は、1926年の夏のもので、レオラ・B・ウィルソンの安っぽいボードヴィル・ブルースの中でのギターソロである。ゲイリー・ディーン・ウォルドローの話では、「パラマウントのスカウト、マヨ・ウィリアムズがカルトに語ったところによると、仲介人がブレイクをジャクソンビルから引っ張ってきた」ということらしい。「この録音を皮切りに、ブレイクのレコードは飛ぶように売れ始めたんだ」。シカゴのマーシュ・スタジオで吹き込んだ、「Dying Blues」でブレイクは、管楽器に先んじて印象的なギターソロを演奏している。
1ヶ月するうちには、パラマウントはブレイクをソロアーティストとして売り出した。「Early Morning Blues」は、ロニー・ジョンソンを思わせる、残酷な内容の別れのブルースである。
俺が寝ているからと言って、酔っ払ってると思っちゃいけないぜ。
(少しも飲んでいやしないのさ)
俺は片目を開けてピストルに手を伸ばし
お前のどてっ腹を狙っているんだ。
B面にカップリングされたのは、かの名高き「WestCoast Blues」。ラグ調のダンス・チューンで、ブレイクは演奏にあわせて、特徴ある声を吹き込んでいる。驚異的なこの演奏は、他のブルースギタリスト達に強い影響を与え、バージニアのラファノックでは、ウィリアム・ムーアがこの「WestCoast Blues」を模倣して、「Old Country Rock」の録音をパラマウントに残しているし、ブラインド・ゲイリー・デイヴィスも、ブレイクのレコードから学んだ一人である。「デルタを除いたアメリカ全土で、ギターはピアノを模倣しようとしていた」とステファン・グロスマンは語る。「それはつまり、ピアノの左手のブン、チャという動きを真似しようとしていたということだ。ブレイクは右手の親指で、それをチャールストン風にシンコペートさせて演奏した。しかも非常にリズミカルで信じられないほどテンポが速い。あの速さで弾きこなしたギタリストを私は知らない。ブレイクの偉大さは、コード、構成といったところではなく、まさにこの右手の動きにあり、他のギタリスト達と決定的に違うところなのだ。」レバランド・ゲイリー・デイビスもブレイクの右手を「スポーティンだ」と讃えていた。またデイビスは、これをさらに複雑なスタイルへと発展させていく。
ヨーマ・コーコネンは、「私はブレイクが3フィンガーで演奏していると思う」と語る。「そして私が思うに、サムピックを付けていたのではないか。彼のサウンドはパーカッシブで、素手の親指で弦を軽くはじく感じではないから。」C,G,Eが得意のキーだったようで、これらのキーでは、どれも自由自在に演奏できたようだ。
1926年10月のソロ・セッションでは、ブレイクは、重苦しいブルースとともに、古きよきホーカムチューン「Too Tight」「Come On Boys Let's Do The Messin' Around」にてスキャットを交えて演奏し、全体のバランスを取っている。続く録音の、「Skeedle Loo Doo Blues」「Stonewall Street Blues」にて、長尺のソロでギターの腕前を見せつけると、パラマウントはブレイクを、ピアニストのJimmy Blytheと共に、11月のレオラの録音に起用し、さらに2枚の良いレコードを作った。そして、レコードデビューから6ヶ月もしない間に、大物アーティストのマ・レイニーのバッグで、「Morning Hour Blues」「Little Low Mama Blues」「Grievin' Hearted Blues」を演奏する程にになった。
翌年早々、パラマウントはブレイク自身が吹くカズーをフィーチャーした「Buck-Town Blues」、牛骨のパーカッションを加えた「Dry Bone Shuffle」「That Will Never Happen No More」を続けざまにリリース、同じ27年の10月には、さらに7枚のレコードをリリースしている。スムーズなシンコペーションの「Hey Hey Daddy Blues」、ホーンを真似た「Sea Board Stomp」、力技の「Southern Rag」では、半年ほどの録音ブランクを題材に歌っている。「俺の歌も今じゃ、Geechieなんて呼ばれるありさま」と歌う曲の中で、稲、サトウキビ、綿花、豆などの農業の様子を描く。ブレイクがジョージア南海の島々を渡り歩く中で、Geechie, Gullalnの訛りになったのでは、という説もあるが、Wardlowは、「私はブレイクがGeechie訛りの地域へ行ったことはなく、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダあたりまでだったのでは無いかと思う」と語っている。そしてグロスマンも「そこでGeechie出身の人々と毎日顔を合わせていたんだろう」と言っている。
11月にはガス・キャノンのバンジョーが加わったミンストレル・チューン「He's In The Jailhouse」を録音する。後の50年代にサム・カーターがキャノンにこの時のブレイクの様子を尋ねている。「Sweet As The Showers Of Rain」の中でキャノンはこう答えている。「俺達はウイスキーばかり飲んでいたね。店にあるだけ飲んじまった。そんでブレイクは酔っ払った俺を家まで送ってくれたんだ。目玉が2個ある俺よりも、奴のほうがよっぽど目が良かった。」マヨ・ウイリアムズも、ブレイクは飲んだくれで、喧嘩っ早かったと、カルトに語っている。
1928年の春には、ブレイクはさらに意欲的に録音を残している。ジミー・バートランドのシロフォンを起用した「Doggin' Me Mama Blues」、かのジョニー・ドッドのコルネットの合間にスライド・ホイッスルが歌う「C. C. Pill Blues」。ライ・クーダーも「あの録音はすごいよ。」と言う。「聴けば判るが、そこに全てが含まれているんだ。絶対に聴いたほうが良いよ。僕らの求める音楽、未だ知らぬ音楽をそこに見つけるはずさ。」(※C.C.は、「カーサティック交じり」の頭文字である。)さらに、ブレイクのラグ「Hot Potatoes」、スウィング調の「Southern Rag」では、ドッドとバートランドは、クレイジーなホーンとパーカッションを聴かせている。バートランド、ドッド、ブレイクの3人は、その後も、ルイジアナ、ローガンズポート出身のキャバレー・シンガー、コーラスガールであるエルザディ・ロビンソンの「Elzadie's Policy Blues/ Pay Day Daddy Blues」の演奏を務めている。ブレイクはその後、スタジオ録音に戻り、唸るブルースのバーサ・ヘンダーソンや、ゴスペル歌手のダニエル・ブラウンとの録音を残している。バーサの「Let Your Love Come Down」では、ブレイクはノリの良いストライドピアノのソロも披露している。この立派なピアノソロの他、「Panther Sequall Blues」では、ギターとハーモニカを同時に演奏して見せている。
リトル・ブラザー・モンゴメリーの話によると、1928年頃は、ブレイクの主な収入は、サウスサイドでのハウス・レント・パーティーでの演奏によるものだったようだ。ただしギタリストは、その収入の中から、50ドルをパラマウントに支払う契約になっていた。31番通りのブレイクのアパートとそのコテージでは、リビングにピアノもあって、ミュージシャンのたまり場になっていたらしい。その中に、モンゴメリー、チャーリー・スパンド、ルーズベルト・サイクス、タンパ・レッド、ブルーンジーらがいて、ムーンシャインを飲みながら、ブルースジャムを続けていた。イシュマン・ブレーシーは、「シカゴでブレイクに会った」と、ゲイル・ディーン・ウォルドロウに語っている。「あいつにはかなわない。物凄いスピードの演奏なんだ。ブレイク、タンパ・レッド、ロニー・ジョンソン、スクラッパー・ブラックウェルなども居て、どいつも凄腕の連中だったが、ブレイクの速さは飛びぬけていた。」
音楽での活躍とは異なり、ブレイクは女性には恵まれなかった。曲のタイトル「Ramblin' Mama Blues」「Back Door Slam Blues」「Cold Hearted Mama Blues」「Low Down Loving Gal」などからも、異性に対しての不遇が見て取れる。彼の怒りが込められた「Notoriety Woman Blues」では、
黙らせるには、殴りつけるしかない
だってこいつは、この南部に、悪名高き女だから
28年のブレイク最後の録音は、「Sweet Papa Low Down」。ピアノ、コルネット、シロフォンを従えた、チャールストン調の楽しいジャイブである。
29年になると、ブレイクはインディアナのリッチモンドへと移り、ピアノのアレックス・ロビンソンとの一連の録音を残す。「Slippery Rag」では、建物を揺らすようなコード弾きとびっくりさせる様なソロを聴かせ、「Fightin' The Jug」では、自分自身の飲んだくれという評判を題材に歌い上げている。
もしもこの俺が死んだ時には、酒をしこたまブッかけてくれ。
8月17日にブレイクは、最高の録音の一つを残している。デトロイトのブギウギ・ピアニスト、チャーリー・スパンドと一緒に、デトロイトの薄暗い通りにちなんだ曲「Hastings St. (Hastings St. Boogy)」を吹き込んだ。当時ブレイクはデトロイトに住んでいたようで、デトロイト東部のゲットのブラディー通り169番が住所だと語っていたようだ。
そこは落ち着かない場所で、、、、
でも、そこは俺をその気にさせる、、、
続く「Diddie Wa Diddie」は、クラシカルなラグタイム・ブルースで、ボーカルの合間のギターが渋い小品に仕上がっている。ブレイクは次に現れるコードの1拍目の直前にルート音を出すことで、曲のリズムの密度を高める名人であった。それに加え、美しいライン、ハーモニクス、ブルージーなベントなど得意の技が、たとえば「Police Dog Blues」にはいかんなく発揮されている。同じ日に吹き込んだ、「Chump Man Blues」について、グロスマンは、「ブレイクの演奏は基本的にはラグタイム・ギターだが、Chump Man Bluesなどでは、Dのキーを用い、得意のCやGでの演奏とは異なる雰囲気、ジョセフ・スペンスのようなバハマ風の演奏を見せている」と語る。
その年(29年)の夏の終わりには、シカゴにて、いくつかの録音を残している。タイニー・パーム、アレサ・ディカーソンのピアノと競演したレコードの他、きりっとまとまった「Guitar Chimes」、ブラインド・アーサー名義での「Blind Arthur's Breakdown」などである。「Papa Charlie And Blind Blake Talk About It」というレコードは、ウィスコンシン、グラフトンに出来た、パラマウントの新しいスタジオで録音したブレイクの最初のレコードで、2人の名手がいなたいジャイブを繰り返し、大げさなボーカル、ジャクソンのこれ見よがせなバンジョーが、もともとのアレンジの雰囲気を吹き飛ばしてしまい、ミンストレルとはかけ離れた演奏に仕上がっている。次のグラフトンでの録音では、チョコレート・ブラウン名義で歌うアイリーン・スカッグのバックで、ブレイクは素晴らしいギターを聴かせている。彼女の「ちくちく踏みつけるかかと」がこの女性ボーカルとブルースマンの演奏の合間に響いてくると、
私が白人の家で洗濯している間
あの男はギターばかり弾いている
それで私はへとへとで寝込んでしまう
もっと良い仕事を探してきておくれよ
ブレイクのギターは、彼女のボーカルの合間に、早いフレーズでレスポンスを入れている。
30年3月のソロ録音の頃を境に、彼のギター、歌の録音がぐっと減ってしまう。ライ・クーダーは、「飲みすぎたら終わりだ。もう仕事にならなくなる。彼も肉体的なピークを過ぎたんだ。良く聴けばそれが判るよ。」12月に「Righteous Blues」を吹き込んで、復活するかと見えたが、31年の3月に、ローラ・ラッカーのバックで3枚の録音を行ったのが、ブレイク名義のサイドマンとしては最後の演奏となった。でも、「Dissatisfied Blues / Miss Emma Liza(Sweetness)」、「Night And Day Blues/ Sun To Sun」は、真似できない演奏として残っている。「Rope Stretchin' Blues」は、自宅に忍び込んだくせ者の頭をこん棒で叩き割るという恐ろしい内容の曲で、タイトル通りの仕上がりである。
ブレイク最後の録音は、1932年6月、グラントンにて、ビクトリア風のスタンダード「Champagne Charlie Is My Name」。裏面は「Depression's Gone From Me Blues」。これは「Sitting On The Top Of The World」のメロディーの焼き直しである。しかしこれが本当に、ブレイクの演奏だろうか?ゲイル・ディーン・ウォルドロウは、「ブレイク名義になってはいるが、それぞれ別人の演奏で、一方は彼、もう一方は別人だろう」と語る。「Depresson's Gone From Me Blues」は、ブレイクの演奏だと思われるが、「Champagne Charlie Is My Name」は、ブレイクの演奏には聞こえない。グロスマンも「この録音にはブレイクらしさが無い。だが本当のところは判らない。別人なのか、それとも変わり果てたブレイクなのか。」
ブラインド・ブレイクの晩年はどうだったのだろうか。これは誰にも判らない。ジョージア・トム・ダージーは語る「ブレイクの最後は一つの謎なんだ。ショービジネスから足を洗った経緯は不明だが、私が考えるに、真面目に働くようになり、付き合いやすい男だったのではないかと思う。しかしブレイクは、レモン・ジェファーソンのように、舞台から消えてしまった。」32年のパラマウントの録音以降、ブレイクは録音を残していない。「おそらくレコーディングの契約が切れて、ジャクソンビルに戻ったのだと思う。」とウォルドロウは言う。「その後のことを知るものは誰もいない。ゲイリー・デイビスが、車にはねられて死んだという話をしているが、これも単なる噂話のようだ。盲人だったので、強盗に殺されたとか、そんなところではないだろうか。」
しかしながらその後しばらく、ブラインド・ブレイクのレコードは、ブラインド・レモンと同じぐらいに売れ、東南部にて大きな影響を残した。私個人としては、ブレイクが「Poker Woman Blues」の歌詞に歌われたような余生を送っていたことを願うばかりである。
金持ちだった事もあれば、
すっからかんだった事もある。
でも、どこへ行っても、楽しく暮らしていたのさ。
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