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サマセット・モーム『トラベラーズ・ライブラリー』(1933年)序文
■サマセット・モーム『トラベラーズ・ライブラリー』(1933年)序文
(Wiliam Somerset Maugham,Traveller's Library, General Introduction)
※下訳のような内容で長年放置していたものを更新。20230607。
訳文
トランプ遊びなどには興味がないという方々がいて、
わたくしはそれを残念に思わずにはいられない。
なぜならば、自問してみていただきたいが、
青春の輝きが失われたあとの未来は、
わたくしたちに何を与えてくれるのだろうか?
わたくしたちみなが同じように、
過ぎゆく年月に押し流されていく中で、
わたくしたち人間喜劇の役者たちは舞台から降ろされて、
観客にさせられるのではなかろうか?
恋愛は若者の特権であり、
愛情など、思い悩む心にとっては冷淡ななぐさめでしかない。
スポーツをするには体力が必要で、実業ならば一生懸命働かねばならない。
そこへいくと、トランプのブリッジの一つも身につけておくことは、
退屈な老後への何より安心な備えとなる。
トランプなら老若男女を問わず飽きずに楽しめ、
暇つぶしにはちょうどよく、雑事を忘れられ、頭の体操にもなる。
だから、トランプなどは愚かなひとのすることだという方々は間違っている。
トランプで難しい手を完璧にこなすには、
意思決定、すばやい状況理解、判断、人間の性格についての知識、
このような能力が必要であることを知らないのだ。
優れたトランプのプレーヤーはみずからの直感を信じてしたがうが、
虫が知らせると表現したベルグソン氏と同じく、そのことを口に出したりはしない。
さらに一流のプレーヤーとなると、詩人の才能のように、
学ぶことのできない生まれながらの特殊な才能をもっている。
人間性というものを学ぼうとするならば、
トランプ相手の振る舞いに、尽きることのない豊富な観察材料を見出すことができる。
狭量と寛容、慎重さと大胆さ、勇気と小心、気の弱さと強さ、
カードテーブルをかこむメンバーはみなその性格をさらけ出す。
トランプに集中するあまり、
日常生活でつけている仮面を取り落してしまうからである。
ブリッジで数回対戦したならば、相手の本性を深く知ることができる。
カードテーブルは人間というものを学ぶには格好の教室なのである。
不幸にもトランプが苦手で、トランプなど時間の無駄だという方もいる。
だが、楽しむということはぜんぜん無駄ではない。
それに、1日24時間1週間7日間の中には無駄に過ぎてしまう時間がそれなりにある。
少し変わるが、
普段きれいなトランプひとそろいをもち歩いているプレーヤーたちを、
別の場所で偶然見かけると、
退屈しのぎに横になり、偉大な文学書に頭脳を働かせていたり、
何か考えごとをしているところを見かけることがある。
もちろん、もっと楽しく過ごすにはどうすると良いかとたずねれば、
話し相手がいるといいというはずだ。
なぜなら彼らはおしゃべり好きだから。
彼らは会話という芸術の衰退をなげき、
その原因をブリッジの世界的な流行だと考えている。
トランプという遊びが多くのおしゃべり屋から聴衆をうばってしまったことは明らかで、
荘重なスタイルの語り手は今日ではほとんど見かけないことも確かだ。
現代人の性急さがおしゃべり屋の圧制をおびやかしているのではないかと、わたくしは思う。
おしゃべり屋は一方的にしゃべりがちで、話に割り込まれることをとてもいやがる。
わたくしとしては、
ジョンソン博士の話を直接聞かされるよりボズウェルの伝記でそれをよむ方が、ずっと楽しめると思う。
聞くところでは、文学界のうわさで有名な木曜定例会にてマラルメが賞賛を浴びていたときは、
彼が暖炉の前に立ってあれこれと話すのを、周りの仲間はみな静かに聞いていたそうである。
アナトール・フランスだったはずだが、その会話について聞いた話からすると、
お互いがそれぞれ発言していたとは、とうてい思えない。
このような場は興味深い体験で、知的なよろこびであるかもしれないが、
とてもリラックスして楽しむというわけにはいかない。
それでも良いと思うのは、聞き手が話し手のことをよほど畏れ敬っているときぐらいである。
なお、幸いにもわれわれ英国人、米国人にとってこの畏れ敬うという感情は、
高名な方々を思う感情とは別のものだ。
その一方で英国語圏においては、日常会話、客間でのおしゃべりが、
知的で意義深い内容であることは、まずといってない。
話題は友人の陰口かその日の出来事である。
人間精神、神と不死、こういった内容について人前で話をするほどの勇気もなく、
また、芸術、文学について他人と議論しようと思うほどに興味をもつことも、めったにあるものではない。
会話が弾むには心地よい音楽も必要なのだろう。
たまたま居合わせたもの同士で会話がとぎれずに続くことはまずなく、
ブリッジをやりたいひとでもいれば別だがその気配すらないときは、
腕時計をこっそりのぞいて、
うまい具合に早くここから抜け出すにはどうしたら良いか考えている。
このような、トランプをしないひとばかり集まったときのためだとわたくしは思うが、
クロスワード、いつだれが何をしたゲーム、アナグラム、といった
社交が恐怖にさえ感じられるようなゲームが発明されたのである。
さらには、お題をあたえては韻を踏んだカプレットを詠ませ、
仲間にこの上ない苦痛を与えるひとたちもいる。
退屈を苦しむあまりとはいえ、
もはや気晴らしというよりは異常なよろこびである。
おそらくこれらの中で一番ましな暇つぶしの方法は、
こんなときどうする?とたずねる遊びであろう。
例えば、もし何か災害に遭ってしまい、
幼い子ども、美女、著名な科学者のうち一人だけ助けられるならば、
あなたなら誰を選ぶ?というものだ。
もう一つの例は、
もし余生を離島で暮らすことになったとして1ダースだけ本をもっていけるとしたら何を選ぶ?というもの。
この問いは、いま序文を書いている本書に収録する作品を探しはじめたときに思いついた。
この問いはもちろん、どのぐらいの本好きかを聞こうとしているのではない。
もしそうなら全部で何冊もっていくかと最初に聞くはずだ。
何ごとにも慎重な方々は聖書とシェイクスピアの戯曲をあげる。
わたくし自身は聖書は表表紙から裏表紙まで通して2回まわりはよんでいて、
あらためてもう一度よみなおそうとは思わない。
しかし確かに身のぎっしり詰まった本であるから、
無人島にもっていくには良い本だと思う。
シェイクスピアについても同様だ。
多くの戯曲は、普通の暮らしをしている方ならば、あえて2度よむことはしない。
でもどうしてもよめといわれるのであれば、1年に1、2回ぐらいよめないものでもない。
さて、この2つが出てしまうと次は難しくなり、答えもさまざまだ。
量も質と同じくらい重要なので、
ワーズワースが1冊にまとまった全集があれば、キーツの全集より適切なのは明らかだ。
そして、考えておかねばならないのは、
同じ本を20回、50回、100回とよまねばならないということである。
一度はよんでおきたい本は相当な数あり、
2回よむにあたいする本もそれなりにあると思うが、
何度も繰り返してよむ価値のある本となると、そうざらにあるものではない。
ピックウィックペーパーを1年に1回ずつ30年間よんだひとのことを以前聞いたことがあるが、
最後は肝硬変でなくなったそうである。
さまざまな作品を集めて収録した本書でわたくしは、
無人島漂着を楽しみにしている方々のための一冊を提供しようと考えたわけではない。
わたくしの目的はもう少しおだやかだ。
列車でニューヨークからサンフランシスコまで旅するとき、
あるいは、蒸気貨物船で大西洋を横断するとき、
手ごろなサイズの本を、ただし1冊だけもっていけるなら何をもっていくだろうかと
自分自身にたずねてみた。
収録した作品についてあれこれと、この序文で長々説明して、読者を退屈させるつもりはないが、
わたくしの考えをはっきり伝える間だけ、少々おつきあいいただきたい。
わたくしは文芸評論家でもなければ文学者でもない。
このいずれかの職にある方ならば間違いなく、わたくしとはまったくことなる選択をしたにちがいない。
もし本書の出版社が、文芸評論や文学書のテイストを求めていたのであれば、
わたくしがこの選集の編者として招かれることはなかったはずだ。
わたくしは職業作家である。
あるときは学びのために、またあるときは楽しみのために、それなりの数の本をよんできた。
しかし、幼少のころからずっと、よむ本とわたくしの専門的な興味との関係を意識しないことはなかった。
一時期、手当たりしだいによんだこともあるが、それ以外は長年にわたり、
必要にせまられたものをよむばかりで、読書量は少なかった。
よむ価値のある多くの本をよみすごしてきたことを、わたくしは認める。
このため読者は自分が期待した作品がみあたらず失望するにちがいない。
わたくし自身は、作家が書いた本よりも作家そのものに興味がある。
作家が自己表現のためにあれこれ試行した作品をたどり、
しかし、作家が自分自身についていうべきことをいい尽くしたという、そのような作品を書いたならば、
それは長年かけてようやくたどり着く高みなのだと思うが、
わたくしはその作家の本をそれ以上はよまない。
よむとしたら本をいただいた場合などの礼儀のためぐらいである。
よみたいのではなく、よまないと機嫌をそこねるかもしれないと心配だからである。
ある一人の作家にたいするわたくしの好奇心がみたされるまでに、
多くの作品をよまなければならないこともあれば、
初期の1、2冊をよんでみたされることもある。
その後、その作家は50冊ぐらいの名作を書くのかもしれないが、
人生は短く、わたくしにも早急によみたい本が相当数あるので、
作品をよむ楽しみを、他の方へ取りのけておくのだと考えて納得することにした。
本書に収録したいく人かの作家では、
その作家の最良の作品が選ばれているわけではないことも伝えておく。
作家が多くのすぐれた作品を書きあらわしていても、
わたくしにはそれをよむ機会がなかった。
これらの作家は、おおむね、わたくしと同年代の作家たちである。
同年代の作家だけは作品を味わうことが難しい。
わたくしが若かったころに重要だとされていた作家で、
今日のわたくしがよんで刺激をうける作家は、
当時のわたくしが今日のわたくしよりも、まちがいなくきびしい読者だったのにも関わらず、ほぼいない。
若い作家は先輩の作家に対しての偏見があってもよいと思う。
先輩の作家は若い作家がもとめる日のあたる場所を占領しているのだから。
しかし若手が先輩を軽んずるのは、なにもねたみからばかりではない。
先輩は文壇でのきまりやしきたりを若手に押しつけるきらいがある。
また、先輩が作品で描く人生に対する考え方、伝えようとする哲学について、
若手は反抗するものである。
先輩は現実主義者であり、若手は理想主義のようなものを抱く。
自分の考え方や哲学があっという間に、
今自分の良識を否定している相手のものと同じぐらい
退屈で月並みなものになってしまうということが、
若手に分からなくてもやむをえない。
誰かを蹴落として文壇にのぼっていく作家たちそれぞれがもつ長所は見落とされがちである。
バイロン、ウォルター・スコット、キーツ、シェリーをよんで、
すべてくだらない、ばかげているといったジョージ・クラビー氏に、
わたくしはひそかに同感している。
結局のところ彼は正しかったのかもしれない。
一人か二人は実際にそうだったかもしれないので。
作家自身が自問できる形で、次の問いを出そう。
現代の一流の文芸評論家が高く評価する作品をよんで、
もし何の長所も見出せなかったならどうするか?
年貢の納めどきだと店をたたみ、
ヴォルテールのカンディードのように自分の庭を耕せ、である。
作家たるもの自分の流儀に固執しすぎるのは危険である。
それでわたくしは、
同業の作家の作品から技術や観点でわたくしが知っておくべき何かを学ぶことができないかと、
常に、かつ慎重に注視してきた。
しかしながら、40年の長きにわたってこのたくらみを続けたところ、
名声をほしいままにし栄光のときをすごした多くの作家が、
忘却のかなたへ、忘れられるのも良いことだといわれるが、沈んでいくのを見てきた。
それでわたくしはすっかり疑い深くなり、
今では、天才だといわれる作家があらわれても1、2年はその作家を敬遠するようにしている。
よむ必要などまったくなかったと後から気づく本がなんと多いことか。
だから本書でも、最近30年の英文学の概観だ、などというつもりはない。
わたくしがよんで、またよみたいと思った作品の単なる寄せ集めでしかない。
今回、英国の作家から作品を選んだ。
その理由の一つは、わたくしが米国よりも英国の現代文学にくわしいということと、
もう一つは、英国の作者にしぼることで、このような寄せ集めでもただ一つ実現できそうな、
全体の統一感、あるいはそのような幻想を、得られるのではないかと考えたからである。
また別の理由として、最近30年の米国文学というものは、
ことに短編小説というわたくしが偏愛する様式において、
また、ライトノベルという英国ではまだ良い作品が育っていない様式において、
どちらも作品があまりに豊富で、わたくしはその量に圧倒されてしまった。
本書のページ数の制約を考えると、わたくしが是非いれたいと思う作品の半分しか入らなくなってしまう。
本当のことだが、本書で読者に提供する作品は、
すべてよみ直して、やはり面白いと思った作品である。
作品の収集に取りかかったとき、収録したいと考えたかなりの数の作品リストを作った。
しかしあらためてよみ直してみると、2回目の読書に耐えられる作品はほとんどなかった。
また予想していなかった新たな発見もあった。
深淵と思っていた小説が今はうぬぼれとしか感じなかったり、
ユーモラスだと思っていた小説がばかばかしく感じたり、
感動したはずの詩に何も感じなかったり、
有意義と感じたエッセイが今は取るに足らないと感じたり。
それでわたくしは多くの旧友をゴミ箱に放り込んだ。
多少ためらいはしたが。
いや、親切な読者から心ない人間と思われぬよう、これは比喩だと急いで付けくわえよう。
実際にはそれらの本は段ボール箱に放り込んで近くの病院にお譲りした。
知り合いの有能な編集者がしばしばこういっていた。
私は平均的な米国人だ。だから私が面白ければ読者も面白いのだと。
また実際その通りだった。
さてわたくしはというと、悲しいかな、人生の大部分を平均的な英国人とは違うと感じてきた。
自己満足でいっていると思わないでほしい。
多くのひとと同じであることは、この上ないことだとわたくしは思う。
唯一このことだけが幸福への道であるため、
人々は幸福だけがすべてじゃないさと顔をしかめて自分にいい聞かせるのである。
すぐれた作家はいつも普通の人間であった。
だからこそ普通の人間の気持ちを(才能の助けを借りて)感じ取ることができ、
これによって作家は真実と同情をもって人間というものを表現することが可能なのであった。
同じ頭で考え同じ心で感ずるのでなければ、人物の完全な肖像を描き出すことはできない。
もちろんなんらかの意味において特異性をもつ優れた作家はたくさんいて、
独特な味わいや独自性のある作品を書き、
それが偉大な作家の作品よりも面白くよめるというときもある。
しかし、オリンポスの神々が住まうあの高みに到達したとまでいいうるとは思わない。
「デイヴィッド・コパーフィールド」よりも「嵐が丘」のほうがよんで面白いとは思うが、
どちらが偉大な作品であるかは一目瞭然である。
たまたまフランスに生まれついたことで、仏語と英語を同時に学ぶ機会が与えられ、
結果わたくしの中には2つの人生の様式、2つの自由、2つの視点が作り上げられた。
本能と偏見がそのどちらの国民性からくるものか、わたくしにははっきり区別することが難しい。
この本能と偏見こそが他者との共感の根底にあるものである。
もって生まれた体の弱さに加え神経質な性格のため、
わたくしの生活は、想像される以上に、他者の普通の生活からかけ離れたものだった。
周囲との交友でわたくしは常に’疎外感’をもっていた。
集団の中で共通の感情がわき上がり、
みなの心臓の鼓動までが一緒になるというときに、
悲しくもわたくし自身の心臓は、いつも通りの変わらぬリズムのままであることに気づいていた。
ジークフリード・サスーンの詩の中の感動的なものの一つに、
「みなが一斉に歌い始めた」という一節があり、
本書でもそれを収録しているのだが、
わたくし自身はこのようなときいつも非常に困惑していた。
年明けの前夜、久しき昔(蛍の光)を音楽にあわせて大きな声で歌いながら、
みなが手をとり合って赤子をあやすように体をゆらすとき、
神経質なわたくしは心の中で「そうだ、私のことは忘れてくれ」と思っていた。
そのため本書では、平均的な人物が選んだ作品が載っているわけではない。
わたくしが面白いからといって読者も面白いとは限らない。
わたくしに共感される方ならば面白くよめるであろうし、
そうでなければ面白くないだろう。
多くのひとがもつ偏見には共感しないかわりに、
わたくし固有の偏見を自然ともつようになった。
本書を最後までおよみいただくと、それをはっきり感ずるはずだ。
わたくしは作家であり、職業作家の立場からこれらの作品を見ている。
評論家、優れた評論家は、非常に高い視点から作品を眺めることができる。作家と評論家の違いはここにある。
評論家が作家の2足わらじをはく場合、
自分の努力の成果を個人的嗜好を排して判断することができる。
はたして作家として働く多くの方々にこれができているかというと、そうは思わない。
どれほど良い本であろうとも自分自身の行動、あるいは行動に値すると思うことが書かれているのでなければ、
その本に長所を見出すことは難しい。
E.M.フォースター氏はすこし前に「小説の諸相」という本を書いている。
わたくしは自分の作品の中でこの本をだしにして少しからかってみた。
しかしE.M.フォースター氏は大変公正な人物で、
寛大な心とユーモアを理解する繊細な感情をおもちなので、
わたくしのこの冗談を大目に見てくれたようで、
わたくしの本が気に入ったという手紙までいただいた。
とはいえ氏のこの本は良いものの一つで、
作家だけでなくその読者もよんで面白いのではと思う。
しかしわたくしがここでいいたいのは、勘の良い読者であれば、この本の内容から、
E.M.フォースター氏が書く作品がどういったたぐいのものか、すぐにお判りになるだろう、ということである。
氏は性格描写に重きを置いていて、これにおいては氏の右にでるものはいないであろうけれど、
小説、物語の基本要素を軽んじているため、わたくしが思うにここが氏の短所であると思う。
わたくしの個人的な意見だが、フォースター氏は、美しい英文を書く才能、特徴ある興味深い活きた人物を創造する力、
情緒とユーモア、詩の感性、こういったものをおもちであるから、
ストーリーを工夫することを軽視していたと認めるならば、
氏の輝かしい才能を全世界に知らしめるような作品を書きうると思う。
しかしこれは取るに足らない個人的な意見でしかない。
本書では、わたくし自身なら書こうと思わない作品は1つとして載せていない。
もちろんわたくしの才能の限界から書けないということは大いにある。
まだ情熱にあふれていた若かりしころ、
わたくしはこぶしを机にたたきつけ、神がもっと能力をあたえてくれていればと嘆いたものだった。
しかし今では満足には程遠いけれども甘んじて受け入れ、
自分の能力の範囲でどうにかするように考えている。
絵描きの絵があるように書き手の本というものがある。
同様に読み手の本というものもある。
これらの本は読者には楽しくよめるのだが、その仕掛けを知る作家にはよむにたえない。
本の書き方に公式があり、作者にはたやすい仕事である。
それはちょうどボール遊びする子どもをみて楽しむジャグラーのようなものだと思ってよい。
とはいえ、このような作品にも良く書かれているものもある。
しばしば丹念に誠実に書かれている。
わたくしが最初に思いつく内容としては、
まず年輩の男性が、生活があまり豊かでないことが多いが、登場、
若い妻と結婚、続いて青年が、男性の息子か農場のした男が登場し、
やがて、よんでいるわたくしががっかりする。
力強く描写されているものの、物語の流れはわたくしには見えすいている。
この手の作品は力強い描写だと賞賛されることが多い。
でも、紅茶のおかわりをそっと差し出す女性の描写だって、
妻をブーツで蹴り飛ばして殺害する男以上に、強い印象をあたえることは可能なのである。
人物の行動は象徴以外の何ものでもない。
会話は最後の手として残しておくべきである。
わたくしは、いなか男に警句を語らせるような描写は好まない。
ちまたの平凡な作家たちは、このような手がとてもうまくいくことを知っていて、
機械的なユーモアなのによろこんでよんでいる一般読者の単純さを、
ものかげから見て、ほくそ笑んでいるのである。
読み手の本でもう一つ、わたくしが思いつく内容は、気まぐれに書かれた作品である。
多くは文芸評論をやるようなひとたちが、本職の合間の息抜きにと書いている。
文化的な内容が印象的に書かれている。
だいたいが、かわいらしいファンタジーの体裁をとっている。
ここでの公式は単純だ。
もう若くない作家の男が休暇にいなかへの道をいく途中、不思議な妖精に出会い、
哲学に関して楽しく語り合う。
あるいは、若い詩人がロンドン郊外の宿屋に泊まると、大変美人のおかみさんが出てくる。
彼女の純真な言葉が読者の胸をうつ。
そこへ中年の作家も泊まりにやってきて、哲学について楽しそうに語って聞かせる。
多くの場合、物語の結末で登場人物の誰かが死をむかえ、
悲しみに満ちた場面となる。
場面の描写はとても繊細である。
こうした作品で読者が得るものは何もない。
ユーモア、悲しみが書かれているとはわかっても、涙をさそうほどの内容だとは思わない。
さてこうした作品で、読者が何か教えられるということはない。
近年、一般に小説と呼ばれるものは、それが取り扱う範囲を広げ、
作者の思想を提示するための枠組みとなった。
そのため小説家が、政治家、経済学者、活動家など、小説家以外のものになってきた。
あれこれと主張するために小説を使っているのである。
彼らは現代の重要な問題に強い関心をいだいている。
こうしたことはロシアに端を発しているとわたくしは思う。
ロシアの作家は小説に新風を吹き込んだが、
文明発展の時代の下で、芸術は社会問題に従属すると考える傾向があった。
チェーホフをご存知かと思うが、
彼は社会問題に無関心だという批判をうけ、彼を擁護するひとたちは弁護に苦しんだ。
チェーホフは芸術家なのであってそれで充分なのだと、公然ということを彼らはしなかった。
しかしながら彼の散文、詩をよめば、たとえば、ロシア農民を描く目的は、純粋な博愛であったことがわかる。
ところで、小説以外の何かに関わろうとする小説家は、2種の危険にさらされる。
まず一つ目は、取り扱う課題に対して、確かな見識をもっていることはあまりないということ。
(もし科学の見識があるのだというなら、そもそも小説家ではないであろう。)
二つ目は、取り扱う課題のうわべ以上のものが見えていることがほとんどないということ。
国会で法律が改正されるとよむ価値が失われるという小説を、あなたならどう思うだろうか。
誰であったか、ある評論家が、偉大な詩の主題は、生と死、愛と憎しみ、青春と老いといった、
皆に共通する人間模様であるといっていた。
わたくしはこのことを偉大な小説に広げて考えている。
芸術の目的はひとを楽しませることだということが、今日、
もはや時代遅れであることはわたくしにもわかっている。
しかしそうなのだと思わずにはいられない。
わたくしはもし何かの知見を求めるならば、それぞれ、哲学者、科学者、歴史家などを訪ねる。
楽しみ以外の何ものかを、小説家に求めたりはしない。
この意見は敵ばかりというわけでもない。
コルネイユ(彼はアリストテレスに学んだ)は、聴衆を楽しませることが詩人の役割だと考えていた。
優美で完璧なラシーヌは、きびしい批判を受けたにも関わらず、
演劇の第一の心得は楽しませること、他のすべての心得は、第一のものを達成する手段にすぎない、
と考えていた。
哲学者コールリッジは、詩作の目的はよろこびであるといわなかっただろうか?
テレンティウスによる、あまりよまれることのないある戯曲の中にある不幸な発言によって、
小説家たちは甚大な影響をこうむった。
もちろん、広く共感が得られるというならそれはすばらしいことだ。
しかし、だからといって、その意見が有用だという裏づけにはならない。
神父であったわたくしの叔父から、同僚の牧師補の話を聞いたことがある。
彼はひどい音痴にも関わらず教会で歌いたいという。
心に信仰心があれば、それが神へのより大きな賛美になるのだという。
読者を教えみちびくことに大変熱心な小説家たちは、
世界一車を速く走らせたカーレーサーが、
大英帝国、インド両国間の課題に関する国民投票でどちらに投票すべきかを
選挙区の有権者に向かって壇上から演説する姿をみたのかもしれないと思う。
くわしく知りもしないことがらについて、
その道の権威であるかのようなふりをするのは、
はなはだ僭越な行為だというほかない。
物語作家が物語作家であるだけで満足してはいけない理由がわたくしにはわからない。
自分が芸術家であることについて、何か不満があるのだろうか?
美文体の作品が再び流行のきざしがあると新聞でよんだ。
ある著名な編集者(作家としてはそれほどでもない)が、
全編美文体からなる作品集を上梓したと聞いた。
わたくし自身は手に取ることはないと思う。
韻文を若者が気晴らしに書くときなどは、
多少の美文体は、それがおだやかなものであれば、わたくしは気にしない。
しかし散文の場合はまったく好きになれない。
この序文につづく本書の中に、簡潔な文体ではない作品は、まず見当たらないと思う。
わたくし自身は、若かりしころ、当時の流行に流されて、
荘重な美文体を書こうと努力をつくした。
聖書に学び、偉大なフッカーの作品に表現を求め、
ジェレミー・テイラーの文章を模倣した。
見慣れぬ形容詞を求めて辞書をくまなく探した。
大英博物館に出向いて宝石の名のリストを作ることもした。
しかしわたくしにはこのやり方が向いていなかったので、
目指していた文体で書くことはもうあきらめて、
自分に書ける文体で書くことにし、スウィフトの研究からやり直した。
ついでだが、聖書は、英語の文体に関しては、何一つ良い影響を与えなかったと付け加えておこう。
言語における金字塔であることは誰しも認めるところであるが、
そもそもが翻訳であることと、大げさな表現は英国民の気質にはなじまないものだ。
わたくしはずっと、スウィフトこそは現代の英国作家が、
自分の文体を確立しようとする際の最も良いお手本だと考えていた。
さらには彼の文章の語順には読者を引きつけるような魅力さえあると思う。
しかし今は、ある種の平板さやはっきり書きすぎてくどいところが目に付くようになった。
彼自身、感情があらわになって言葉が強くなるときでも、
決して声を荒げることのない人物であった。
少々いい過ぎたかもしれない。
もしわたくしがもう一度最初から文体を学ぶならば、ドライデンの研究に取り組みたい。
彼こそが英語の散文にはじめて文体をもたらした人物である。
重々しい修辞法に押しつぶされていた英語を解放し、
美しく優雅な至上の音色の楽器へと作り変えた。
彼はスウィフトのもつ率直さと明快さをもち、
またスウィフトは最後まで得ることのなかった音色の豊かさとなじみやすい口語表現をもっていた。
ディーンにはない幸福そうな魅力をもっていた。
スウィフトの文体は、ポプラ並木の下を流れる運河のようである。
一方、ドライデンの文体は、大空の下を流れゆく大河のようである。
これ以上魅力的なものをわたくしは知らない。
無論、言葉は生きて変化している。今日、ドライデンのように書くことを時代錯誤といわれるかもしれない。
それでもなお、彼が英語散文全体の中での美点であることには変わりがない。
英文を書くことは難しい。
文法が複雑であるため、優れた作家でもしばしばとんでもないへまをしてしまう。
数々の外来の影響から取り扱いがひどく難しい媒体になってしまった。
学者たちは美文体という重い荷物をしょい込んでいる。
ピエロは紙の輪をくぐりぬけて、美文のお手玉をしてみせる。
でもそれはサーカス劇場の小道具の一つでしかない。
修辞学の学者は語彙の大海でおぼれている。
それでもなお、文学の美点はそこなわれずにある。
この選集で紹介する作家たちのもつ美しさを、よろこびと自負をもって指し示すことにしよう。
脚注
ベルクソン氏 (1859-1941) 哲学者
ジョンソン博士 (1709-1784) 文学者
ボズウェル (1740-1795) 伝記作家
マラルメ (1842-1898) 詩人
ラシーヌ (1639-1699) 劇作家
ジョージ・クラビー (1754-1832) 詩人
ヴォルテール (1694-1778) 作家
コールリッジ (1772-1834) 詩人
フッカー (1554-1600) 神学者
ジェレミー・テイラー (1613-1667) 聖職者
ドライデン (1631-1700) 詩人
コルネイユ (1606-1084) 劇詩人
テレンティウス (前195?-前159) 劇作家
「私は人間である。人間に関わることで自分に無縁なものは何もないと思う。」が知られている。
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