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■サマセット・モーム『グレート・モダン・リーディング』(1943年)序文

(Wiliam Somerset Maugham, Great Modern Reading: Introduction to Modern English and American Literature, Introduction)

訳文

 品揃えの良い本屋の中を見て回るのは、そう言う人は少ないだろうが、とても面白くて、そして害の無い、人生の喜びの一つではないだろうか。 タイトルを眺め、あちらこちらから一冊ずつ手に取ってはページをめくる。 その本屋に、本に詳しい店員が居るならば、あなたの好奇心を刺激する本や、今まで知らなかったが興味が湧きそうな分野に関する本を教えてもらう事で、 その喜びはさらに大きくなる。しかし、アメリカに住む多くの人々は、このような喜びを味わう事が出来ない。 人口に対する書店の割合というものは少なくて(ここで言う書店とは、本格的な店の事を言っている)、どこにでも有るというわけでは無いからだ。 書店は人口が集中しているところに偏在している。 私の知っているある町は、人口が20万人弱であるが、新しい本が買える場所といえば、唯一、お土産屋さんがあるだけで、 しかも、在庫している本といったら、最近のベストセラーの本だけであった。 小さな町に住む人々などは、近所の薬局に置いてあるリプリントで満足するしかない。それでもあれば良いほうなのだ。

 しかしながら、本の通信販売のあるおかげで、本の需要は随分とまかなわれている。 ブック・クラブというのも、本屋が遠くて、自分自身ではなかなか実際に手に取って選ぶ機会の無い人々にとっては、本を買う良い方法の一つである。

 米国で広がっている数々のブック・クラブはなかなか役立つものだ。私自身も随分と恩恵をこうむっている。 ブック・クラブのおかげで、文学をたしなみ、新しく出版されてくる本に興味を持つ人が広がった。 しかし、私の言った、自分自身で選ぶ、という観点からすると、やはり不可能で、なかなか難しい。 同じ理由から、購読者に本を発送する仕事をする側には重要な責任があるだろう。数多くの同胞達の文学の趣味や、その文化を導いて行かなければならないのだ。

 図書館の存在も忘れてはいけない。小さな町であっても、蔵書は驚くほど充実していて、 私の出会った図書館司書の方の場合だと、文学の知識も豊富で、何かと役に立つことを教えてくれた。 しかし、本はやはり自分の家に置いておきたいものだ。まるで親しい友人のように、放ったらかしにしておいても、とがめ立てせず、 再び手に取って読み始めると、以前と同じように時を忘れ、疲れを癒してくれる。本を所有することは、とても楽しい事だ。

 この国の人々は色々な事に興味があり、知識欲が旺盛だ。だから特に読書においては、与えられるほどに読みたがる。 アメリカの人達には、読書の喜びを是非知ってもらいたいし、広く読んで多くを味わううちに、偉大な文学作品の楽しさもきっと知るようになるだろう。

 私のこのアンソロジーは、アメリカの人々に是非読んでもらいたいと思って作った。アメリカの人々の役に立ち、そして出来れば楽しんでもらいたい。 これはそのための、最近40〜50年間に英米で発表された文学作品を概観する、いわば鳥瞰図である。 それがこの本での私の狙いである。しかし、私の力が及ばなかった面もあり、必ずしも完璧ではない。 特定の分野を除くと、私の読書は行き当たりばったりで、私の概観図を完成させるために必要な作品が他にあるのかも知れないが、 その作家については結局ずっと読まないままという事があるからである。また、ページ数の厳しい制約という問題もあった。 私は、誰もがこの本を財布を気にせず買えるように、是非、安い値段で出版したいと思っていた。収められる作品数には、印刷費用から来る制約ができた。

 このアンソロジーはアメリカの人々のために作った。綿糸や石鹸を買いに来た女の人や、釘やペンキを買いに来た男の人にこそ手に取ってもらいたい。 私がこの本で、読者に手の届かないような立派な何かを作って、賞賛を得ようとしたなどと思わないで頂きたい。 まったく逆である。私は近年に出版された文学作品の概説を考え、私自身が良いと思い、重要だと思った作品を選んだ。 読者の皆さんはきっと判ってくれると信じている。しばらく前に、サンフランシスコで開かれたフランス絵画の展覧会に出掛けた。 そこで出品されていたのは、通好みと思える作品ばかりであった。 土曜日の午後だったが、ギャラリーは混んでいて、近くの軍需工場に勤めている人達がたくさん、奥さんや恋人と一緒に訪れていた。 セザンヌ、ゴッホ、ピカソ、マチス、ブラック達の作品を見て、拒絶したり困惑している人は誰も居ない。 それどころか、作品にとても興味を持っているようだった。 作品の前に立ち止まり、熱心に議論していて、作品の中に自分自身のための何かを探し出そうとしている、私にはそのように見えた。 作品が人々の本能に語りかけている、そんな印象を受けた。

 これに関連して、ラジオなどで、真面目な音楽を聴く人達と、もっと軽く楽しめる音楽を聴く人達を比べてみるのも面白い。 以前、ポップスのコンサートに出掛けた時、聴衆を楽しませることを第一に考えると、ポップスが一番いい音楽なのではないかと思った。 演奏される作品の格式は高くなく、冷ややかに受け止められがちだが、それはポップスの気楽な感じを出すために指揮者は狙ってそうしているのだろう。 私が思うに、人々は機会され与えられれば、良いものは良いと素直に受け入れるものだ。 そして、人々が受け入れようとしないものは、やはり良くないものなのだ。 彼らは洗練された教養ある道楽者、喜んで2流の作品を楽しむ洒落者だ。 深い感情以外の何かが関わることで、目新しさが独自性のようも見えるし、見かけのもっともらしさが実は真実のようにも思える。 楽団はそんな良さをドブに捨ててしまう事も多いのだが。

 私は、すべての人々が生まれつき良い趣味を持っていて、常に、たいしたことの無い作品よりも一番良い作品を選ぶなどという事を言うつもりはない。 実際にはそんな事が出来る人は誰も居ないし、繊細な感性を持っている人だってほとんど居ないのであるから、我々には1流の作品でなくても充分なのである。 我々は他とは違った良さのある物も好きになる。私の例を挙げると、プッチーニのオペラを見るのはとても楽しい。 しかしこれは、モーツアルトのオペラを見るのとは違う種類の面白さである。トルストイの戦争と平和を読むよりも、コナン・ドイルを読みたくなる時だってある。 私が言いたいのは、この国にいる、おそらく数百万のたくさんの人々は、感性を養って判断力を作るため多くの芸術に触れてきた人々と同じくらいに、 良い音楽、良い絵画、良い文学を楽しむ能力があるという事だ。それで私は、このアンソロジーの編纂では迷うところがなかった。 このアンソロジーに収められた作品がすべて偉大な作品だ、などと言うつもりは毛頭無い。 過去2500年間に世界中で書かれた小説から集めても、本当に優れた作品だと呼べるものはそれほど多くない。 実際、5段の本棚があれば全部収まると言われている。過去半世紀の英米の小説を集めたこのアンソロジーが不完全なのは当然のことだ。 しかし、これだけは確かに言える。好奇心と知性がある人な ら、ここに納めた作品のすべてに、なんらか面白いと感ずる所があるはずだ。

 私はいつも、読書は楽しくなくてはいけないと思っている。読書から何かを得ようと思ったら、集中して読む必要はある。 健全な考えからすると、読書は知性の活動なのであるから当然のことだ。しかしながら、作品を、読んで面白い物にすることは、本の作者の仕事である。 読んで為になる作家であっても、不幸にも優雅な書き方が出来ない作家だとすると、その作品を読むのはしんどいだろう。 このアンソロジーでは、人々の読書習慣を作り上げる目的も考えたので、私は出来る限り、 そんな小難しい作品は排除し、良い作品を読むことは楽しいということを示そうとした。

 もう随分以前のことになるが、私はトラベラーズ・ライブラリーというアンソロジーを企画したことがあり、この本はそれに続くものである。 トラベラーズ・ライブラリーはなかなか良く出来たと思っている。そこから他のアンソロジーに転用された作品も出た。 トラベラーズ・ライブラリーでは、私は必要なページ数をすべて確保出来た。それで、色々な意味で興味を持っていた3つの小説を収録する事が出来た。 今回も是非そうしたいと思う。この本も、近年の文学作品を概論するにはいい機会であるからだ。欲を言えばきりが無い。 この点以外は、前のやり方と同じである。詩と、短編と、そしてなかなかこれを指す良い言葉が無いのだが、 私自身は嫌いな言い方を敢えてすると、”美しい手紙”を収録した。

 イギリス作家の作品とアメリカ作家の作品が両方収録されているが、私は区別をしなかった。 イギリス文学だとか、アメリカ文学だとか、そういう言い方をする時代は終わったのだ。それらを一つに、英語圏の文学と読んだほうが良いだろう。 作品の順序は現代の作家から始まり、次第に遡って、私が昔読んだ作家へと並べた。今を生きる我々は、現在に興味があるのだから、このように並べてみた。 現代の文学作品は、我々と同じ言葉を話し、我々と同じ服を着ている。電話、自動車、ラジオ、飛行機など、我々が使っている道具を使う。 そのせいで我々は作品をよく理解できて、そんな親近感から、今までは本を読まなかった人でも本が読めるようになるだろう。 こうした作品は我々と同じ生活を送っているので、読んですぐに楽しめるからだ。

 我々現代の作家は、過去の先人達に対して、大きく有利な立場にいる。先人達は何を書くにしても初めてだっただろう。 その一方、すでに書きつくされた題材に、自身のひらめきをもって新しいひねりを加える事が現代の我々に出来ることのほとんどすべてである。 シンデレラのストーリーを思いついた作家はとても運が良かっただろう。 そこから、村の処女に欲望を抱く金持ちの悪人を描いた生気のある物語を思いついた作家は幸せだ。 優しい心を持つ極道男、でっぷり肥った資産家、実直な労働者、美人の未亡人、やきもち焼きの奥さん、寝取られた男、借金男、豪腕の男、無口な男、 これらの、人間世界を行き来するとても印象的な人物像が、架空の肖像として描かれる。 最初は疑いを持って読み始めた読者はやがて、悲しみに顔色を失った人間達と向き合わざるを得なくなる。

 過ぎ去った時間は、我々にもう一つ有利な点を与えている。創作された作品のほとんどは忘れられてゆき、本当に優れた物だけが残る。 現代の作家達は、そうした作品と比較されるのだ。我々は現代について書かなければ、とてもこの勝負に勝ち目はない。 過ぎ去った過去の偉大な作家達が現代の読者に与えることの出来ないものを、我々は与える事が出来る。 それで、今回の作品のほとんどを、この20年のうちに書かれたものから選んだことは正しいと思っている。 この本では、古い作家ほど後ろになるように作品を並べた。こうした方が読者には読んでもらいやすいと思ったのだ。 一歩一歩近づいて行くのなら、読み手はあまり意識を変えなくても、形式や言い回しの違う古い作品の中に、自分の考えに通じる所がある事に気付くであろうし、 19世紀という暗黒の時代の作家の作品でも、面白く読めることに気付いて驚くだろう。 昔の作品をもっと読みたいと思い、我々の文化に燦然と輝く偉大な作品を読み味わえるようになるだろう。

 人々には、古典はつまらないという先入観があり、古典を読みたがらない。 たぶん、学校や大学で古典を無理やり読まされたので、こんな印象が残ってしまったのだろう。 文学に権威のある人達も、読書についてたいした説明もせず、偉大な作品は素晴らしいから読めと、若い人に押し付ける。 彼らが大人になった後も、過去の偉大な作品などいくら読んでも、心配事、悩み事の多い現代を生きるために役立つことなど少しもない、そう思うのも仕方ない。 しかし、幾世代にも渡って、私やあなたのようなごく普通の読者が面白く読み続けている作品だけが、古典と呼ばれるようになる。 これら作品はすべての人々の感情に訴えるところがあったからであり、すべての人々が直面する問題を取り扱った作品だからである。

 このアンソロジーでは、私自身の判断で良いと思える作品だけを選んだ。 この考えを貫いた結果、その作品が書かれた時点では文学的な価値があっただろうが、今ではそれほどでもない作品も選ぶことになった。 また逆に、単にページ数の制約から、重要で文学的な価値があっても選ばなかった作品もある。 この理由から、ジョセフ・コンラッド氏の『Youth』と、リチャード・ライト氏の『Fire and Cloud』を除外せざるを得なかった。 強調しておくが、『Tellers of Tales』というアンソロジーを出版した後、作品が選ばれなかったことに腹を立てた知り合いの作家が居ることに気付いた。 ある人などは、怒った調子の手紙をよこして、自分の作品は過去20年間、アンソロジーに選ばれてきているという事と、 私が彼の作品を読んだ頃は、良い作品というものがどういうものかを知らなかったと言うなら納得する、ということを書いてきた。 私はこの、おこりん坊作家の作品を読み、なかなか面白いと思った。 しかし、繰り返すがページ数は限られているのだ。『Tellers of Tales』では、19世紀のはじめから今日までの5カ国で書かれた作品から、 文学の発展に寄与したと思う作品を選び、各国の文学を充分に代表させる事が出来たと思う。 特定の作家の作品で面白いと思っているものもあり、例えばジャック・ロンドンの作品などはそうである。 しかし、私の考えが間違いかも知れな いが、彼に関して言うと、彼の作品は必ずしも代表的な作品として取り上げる必要は無いと思ったのだ。 だから、今回のこの小さなアンソロジーを編纂するにあたって、作家の皆さんは、作品の使用許諾をお願いしなかったからといって腹を立てるのは止して欲しい。 そうしたくても出来なかっただけなのだ。作品の価値とは関係ない。 私は自分の判断が完璧だなどとは思っていないし、批評家が仕事の上で必要とされるような公正さも持ち合わせているとも思っていない。 私には好き嫌いがある。嫌いと思った作品にも良いところがあることも知っている。それを認めた上で、良い作品であっても、好きではないのだ。

 最後に、このアンソロジーの準備でお世話になった方々にお礼を申し上げたい。Glenway Wescott氏、Ken McCormick氏、Donald Elder氏、Rebecca Pitts氏、このアンソロジーを作るという目的を達成できたのは、友人である彼らの有益な助言に寄るところが大きい。

W.S.M

脚注

サマセット・モームによるアンソロジー『グレート・モダン・リーディング』(1943年)の序文を訳出した。サマセット・モーム氏の芸術観を知るの に参考になる。


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