TopPage  -> サマセット・モーム『作家の自己弁護』(1947年、『環境の動物』序文)

■『作家の自己弁護』(1947年、『環境の動物』序文)

『The Author Excuses Himself』 (from 『Creatures of Circumstance』, 1947, Wiliam Somerset Maugham)

訳文

 この巻を出版するにあたって、読者の皆さんにお詫びをしたい。戦争が始まった頃、『変わりばえせぬ話』(The Mixture as Before)という短編集を出版し、その本に私は、短い序文を書いた。その頃私は非常に忙しくしていたので、友人のエドワード・マーシュ氏にその草稿を 送り、校正をお願いした。彼はその返事に、「あなたが執筆を止めてしまうと知り、とても残念です」と書いてきた。私はそんなつもりはなかったのだが、忙し くて、結局その件に関しては訊ねないままになっていた。数ヵ月後、イングランドに帰ってようやく、出版されたこの本を手に取り、そこで初めて気が付いた。 私は、「今後、もうそれほど多くの作品は書かないだろう。」と書いたつもりでいた。それが、タイピストか植字屋は、私がよほど多くの作品を書いたとでも 思ったのだろう、「many more stories」のmを飛ばして、「any more stories」としてしまい、「今後はもう書かないつもりだ。」となってしまっていた。一応、草稿を確認してみたところ、やはりmanyとなっていた。

 『変わりばえせぬ話』に入れるつもりで書いたが、入れなかった作品がいくつかあり、まだ構想中の作品と合わせて、機会があればもう一巻、出版したいと 思っていた。だから読者の皆さんは、騙された!なんて、思わないで頂きたい。それに、「もう書きません」などという約束は、私にはとても出来そうにない。 作家たるもの、ある日突然アイデアが湧き上がり、そして最後にはどうしても書かずにはいられなくなってしまうものなのだ。

 この巻に挙げた作品の内いくつかは、ずいぶん昔に書いたものだが、直さなくても充分読めると思ったので、直さずにおいた。『Winter Cruise』だけは、登場人物の国籍の設定を少し直した。戦時中の敵国民全員を憎んでいる人達から、批判を受けるのも嫌だと思ったからだ。一つの作品は 戦時中に書いたものだが、他は終戦後に書いたものだ。どれも雑誌にはすでに掲載された事があるものばかりである。

 こんな風に雑誌に書いた作品だと認めることで、随分低い評価を受けることになることは承知している。「雑誌小説」と言うと、それは作品を軽蔑して、読み たくない時に言う言葉だからだ。しかし、このような言い方は、雑誌小説の価値を正しく判断しているとは言えないだろう。すこし文学史を勉強し直した方がい い。なぜなら、雑誌というものは随分昔から一般的に、作家が読者に作品を発表する有用なメディアとして機能してきたからだ。偉大な作家達、バルザック、フ ローベール、モーパッサン、チェーホフ、ヘンリー・ジェイムズ、ラディヤード・キプリング、みな雑誌に作品を発表している。特に短編小説の場合、雑誌に掲 載されたことのない作品というのは、どの編集者からも認められなかったつまらない作品だと思って間違いない。雑誌小説と言って、作品を軽蔑するのは馬鹿げ ている。確かに雑誌には、ひどい作品も多く掲載されている。しかし、優れた小説よりは、悪い小説の方が多いわけであるし、文学的な志向の強い雑誌の編集者 であっても、他に良い作品が見つからなくて、くだらない作品を仕方なく掲載しなければならない場合も多いのだ。大衆雑誌の編集者になると、読者の偏った好 みに合いそうな作品ばかり集めて載せる場合もある。編集者は、狙い通りの作品が書けそうな作家を必死で探し出してきて、上手く書かせている。このような、 機械にでも書かせたような作品のせいで雑誌小説が悪く言われるのだろう。しかし、これらも無理に読む必要などない。雑誌小説は、単調な毎日の生活を送って いる人々が求めているロマンスや冒険を、ほんのひと時味わう事が出来ればそれでいいのだ。

 しかし、数多く出版されている短編小説に関するレビューを読んでみると、雑誌小説だとこき下ろしている評論の方が間違っていて、実際の作品の方は、なか なか良く構成されていて、ドラマチックで意外な結末になっていることが多い。意外な結末というものも、小説の結末としてのまとまりがあるならば、少しも悪 いことはない。逆にとても良いと思う。中には、O・ヘンリーの作品に時々見られるように、話が突然途切れて、理由も無くいきなり読者を蹴飛ばすような終わ り方をするひどい作品もあるが、そんな作品でなければ、前半、中盤、後半、というまとまりがあり悪くない。立派な作家達はみな、こんなまとまりのある作品 を書こうと、必死で努力しているのだ。最近の作家の流行は、チェーホフを中途半端に読んだ影響を受けていて、どこからともなく始まって、明確な結末のない まま終わってしまうものが多い。雰囲気だけ描くか、印象を与えるか、性格だけ書けば、それで充分と思っているようだ。それはそれでいいのだが、そんなもの は物語では ないし、それにまず読者が納得しないだろう。読者は、はっきりしないまま終わってしまうのだ嫌いで、疑問点は解決して終わるのを望んでいるのだ。さらに今 日では、事件を嫌う傾向がある。その結果、何も事件が起こらない退屈な作品が氾濫している。思うにこれも、チェーホフの影響によるものだろう。彼はある時 こう書いている。「人々は北極へ行って氷山から落っこちたりするものではない。勤め先に出掛け、奥さんと喧嘩し、キャベツ・スープを飲んでいるものだ。」 そうは言うが、人々は北極へ行くわけであるし、氷山からは落っこちないにせよ、危険な冒険もする。それに、キャベツ・スープを飲む人の話は書いていいが、 冒険の話は書いていけないという理由はない。しかしながら、勤め先に出掛け、奥さんと喧嘩し、キャベツ・スープを飲むだけの物語では、つまらない事は明ら かだが、チェーホフはそうは思わなかったようだ。物語を書こうと思ったら、勤め先からは大金を盗み出し、奥さんは殺すか、離婚するかして、情熱のこもった 重大なキャベツ・スープを飲まなくてはいけない。その時、キャベツ・スープは、家庭生活の満足のシンボルとなり、また、家庭生活の欲求不満から来る怒りの シンボルともなる。それを食べる事は、氷山から落っこちる程の悲劇的な結末を生む。これは確かに普通ではない。チェーホフが、他の作家や、人間がもともと そうであるように、言うならば、「人間は、出来ることしか出来ない。」と考えていたのは確かだろう。

 しばらく前に、短編小説の書き方、と題する記事を読んだ事がある。その著者が挙げた観点には、有用なものもあったが、私が思うには、中心となる論旨が間 違っていた。その中で彼女は、短編小説で重要なのは、登場人物の性格を作り上げることであり、事件はその個性に生気を与えるためだけに起こるよう構成する べきだ、と書いている。この記事の冒頭で彼女は、「(聖書に見られるような)説話は、最も優れた短編小説の一つである」と書いているのも奇妙なことだ。 「放蕩息子とその兄弟」、「よきサマリア人」「盗賊に身を貶めた男」などの聖書の登場人物の性格を描写するのは、とても難しいことだろう!これらの人物 は、純粋なまでに一般化されていて、我々はそれがどんなタイプの人物かすぐに想像できるので、説話が説こうとするモラルに関わる最低限の事実さえ記せば、 読者には充分なのである。短編小説作家はみな、このやり方を踏襲していい。短編小説には、性格を作り上げるための描写を行うスペースなどない。登場人物の 性格に生気を吹き込むための重要な特徴だけを書き、語ろうとする物語に真実性を持たせる事さえ出来れば充分なのである。

 大昔から人間は、焚き火を囲んで、あるいは、市場の通りに集まって、そこで語られる物語に耳を傾けてきた。物語を聞きたいという欲望は、人間の感性に深 く根ざしているのであろう。私自身も「ストーリー・テラー」を以って自称している。物語を語る事が面白いと感じているし、実際多くの物語を書いてきた。不 幸なことに、物語の面白さのためだけに作品を書くことは、今日のインテリゲンチャからは疎んぜられている。私は勇気をもって、この不幸に耐えることにしよ う。 

脚注

サマセット・モーム著『環境の動物』(1939年)の序文『作家の自己弁護』を勝手に訳出した。『環境の動物』と邦題をつけているが、河出書房の「世界文 学100選」の解説にな らったもので、邦訳、出版はされていない。サマセット・モーム氏の短編小説観を知るのに参考になると思い、序文のみここに掲載する。

※Edward Howard Marsh (1872 - 1953)
英国に生まれる。公務員から、ウインストン・チャーチルの秘書を23年勤めた。ルパート・ブルックと親交があった。詩、絵画の蒐集や、古典文学、仏文学 の翻訳などで知られる。

※The Mixture as Before (1940)
この集から5編は、新潮文庫から「モーム短編集14、人生の実相」と題して、邦訳が出版されている。田中西二郎氏訳。現在は古書でしか手に入らない。収録 作品は、
    獅子の皮 (The Lion's Skin)
    山鳩の声 (The Voice of the Turtle)
    人生の実相 (The Facts of Life)
    マウントドレイゴ卿の死 (Lord Mountdrago)
    幸福 (An Official Position)
の5編である。many, anyの話題となる序文は、この邦訳集には含まれていない。


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